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その11 アメリカの教育界をも唸らせた孫少年

 留学話を切り出した孫少年に、当初反対していた親や親戚、そして入学したばかりの高校の校長や先生たちも、少年の固い意志には勝てませんでした。
 そして渡航の準備。研修旅行で世話になった現地の先生を身元引受人とすることや、9月に始まる1年先の高校入学までに英語を学べる学校への手続きなど、身元引受人の力を借りて全部自分で済ませて、1974年2月にアメリカに出発します。

 少年がホームステイをしながら半年におよび英語を学んだのは、サンフランシスコ郊外のホーリー・ネームズ・カレッジ構内にある英語学校でした。
 そこで英語を勉強したのち、1974年9月、やはりサンフランシスコ市南部にあったセラモンテというハイスクールに2年生として入学。ちなみにアメリカでは小学校から高校まで、6・2・4年の学制学校がほとんどで、4年制のセラモンテ高校の2年生は、日本の高校1年生にあたります。
 さてこのハイスクールで、前に見た森田塾の館長を唸らせたときと同じような展開がまたまた見られるのです。孫氏は語ります。

 【 晴れて入学して3日間を過ごすうちに、全科目の教科書をざっと読むことができた。そして日本語で書かれたものなら、おそらく全科目Aを取れると思いました。
  そこで校長に、“アメリカでは、理解度に応じて飛び級という制度があると聞いています。私の英語はまだダメですが、しかし、2年生の教科書の内容は全部理解できます。だから、3年生にして欲しい”とかけあったのです。
  すると、なんとOKが出たのです。たしかに飛び級というのは、個人の程度に応じた教育指導制度で、その考え方は理に叶っていると思います。しかし、その裁量を校長の胸一つで決められるというところが、またアメリカの面白いところです。

 そして3年生になって数ヶ月、教科書だけでなく、先生からの講義も知っていることや、わかっていることが多く出てきて、そこでとうとうわけを話し“4年生にして欲しいのですが”と頼むと、今度はそんなことはとても認められないと拒否されました。
  しかし、生徒がすでに理解している内容に、また1年間という長い時間をかけるのは、教える側、教えられる側双方にとって、いろんな面で浪費損失でしかないと、熱心に訴えました。
  そのうち、こちらの言うことにも理があると思ったのか、ついに4年生にしてくれたのです 】と。

 校長先生の胸一つで、生徒の進級を決められるなどとは、さすがに日本とアメリカ社会との違いが見られます。日本の小中高校で飛び級などというものは見られなく、また大学への飛び級を認めている大学も少しはあるものの、その場合でも高卒認定試験などがあって、学長の胸一つで決まるなどということはありません。
  それにしても、少年側からの一方的な見方ではなく「お互いに浪費損失でしかない」とする大学側の労力負荷までをも考えた少年の訴えには、さすがの校長もそこまでの考えには至っていなかったものと思われます。
  ところが、4年生にしてもらった段階で、それで終わりではなかったのです。孫氏は続けます。

 【 だが、その4年生もなかばころ、今度は、“高校はもういいので、大学に行かせて欲しい”と言うと、さすがの校長も“ムチャクチャ言うな。だいたい大学へは18歳以上でなきゃダメなんだから”と、まったく相手にしてくれませんでした。
  私は8月生れ。この高校への入学時には17歳になったばかりでしたから、校長もそう言ったのでしょう。

 しかし、ここまできたからにはと、私は切り出しました。
  “どうせ僕は外国人なんだから、規則にしばられることなんかないんじゃないですか”と。しばらくのやりとりで、すっかり疲れてしまったのか、校長はついにこんなことを言い出した。
  “そんなに言うなら一つだけ方法がある。高校を卒業していないものが、大学に入るための大学検定資格審査試験というのがある。
  合格すれば、高校卒業資格が与えられ、大学に行く資格が得られる。ただし、6教科の試験を一発で通ればの話だが。もし望むなら、それを来年受けてみたらどうか”と。

 すかさず私は、“今年はもう終わったのですか”と訊くと、“あと2週間後にあるが、今年は無理だ。来年、受けたければやってみればいい”と。
しかし、検定試験の門戸は広く開かれており、それを受ける、受けないは、あくまでも本人の意志のはず。さらに大學入学時の9月までには、18歳になっている。すぐに私はこの大学検定資格審査試験を受けることに決めた 】と。

 この校長と少年のやりとりを見ていますと、前回、少年の父親の言っていた“この子は一度言ったことは必ず実行する子だった。何かを言い出す時はすでに決心が固まっていて、自分の説を曲げることはなかった。反対すればするほど自分の考えを貫き通す”という少年の気質を見る思いがします。
  ここでいう気質とは、いわゆる我がままで「我を通す」という意味ではなく、相手の不利益になるようなことは一切無しで、すべてでハッピーとなる筋の通った主張をするという意味においてです。

 そして日本の高校で退学願いを申し出たとき、"このまま行けば東大へ行けるのに"と慰留した担任の阿部逸郎先生に対して、孫少年は「東大のどこがいいのか。国籍の問題で官僚にもなれない。自分には日本では活躍できる場所はないんです。人並みのことをしても仕方がない。アメリカだったらすべての人間を平等に評価し、可能性も引き出してくれます。そして、もうそんな時間はないんです。僕にはそんな時間は残されていないんです」との言葉を残しています。

 東大への道が確実と言われる中でそれを振り払い、しかも時間がないと言っているそんな中で、渡航の事務的な準備と英語の勉強のため、結局は日本の高校入学時から1年半も棒に振ってしまっています。
  校長とのやり取りで、その失った時間を取り戻そうとしている少年の、懸命な姿がはっきりと見て取れます。だからぎりぎりのところで、2週間後にある大学検定資格審査試験のチャンスを逃す手はなかったわけです。
  そして資格審査試験の当日、ここでもまた、少年特有の理路整然とした考え方が発揮され、州の教育局責任者もそれには納得させられてしまうのです。孫氏は続けます。

 【 ところが試験当日閉口したのは、会場で渡された教科書ほどもある分厚い試験問題だった。それはといえば、ほとんどが説明文となっている英語のせいであった。本題は英語ではなく、中身の試験のはず。私は意を決し試験官に訴えた。
これは英語力を試す問題ではなく、学力試験のはず。私は入国してまだ間もない外国人。だから、辞書の使用とテスト時間の延長を認めて欲しい”と。すると
“そんなことはできるはずがない”と試験官が言う。それもそうだ。彼は会場にいる係員として、どうこうできる立場にある人ではないのかもしれない。

 そこで今度は、“教育の責任者と話をさせてほしい”と食い下がった。試験官は、どうせダメに決まっている、言い争っていてもしょうがないと思ったのか、とうとうその場から電話で、州の教育局責任者に連絡を取ってくれた。ところがなんと、先方は了解してくれたのです。
  たしかにそれは「学力」の試験だとして、辞書の持ちこみを許してくれた。そればかりか、さらに大幅な時間の延長、1科目2時間ずつで1日に2科目、3日間のスケジュールまで許してくれたのです。

 ここで改めて、アメリカ社会の度量というものを感じました。そしてカンヅメ状態の3日間。はみだし者である私は、皆と一緒の時間帯ではなく夕方から始め、試験官を横に休憩もはさんで、夜遅くまで問題と格闘しました。
  初日と2日目の帰りは午後11時。最終の3日目は午前0時を過ぎていた。その3日間が終わると、頭の中が真白になるほど疲れ切ってしまいました。
  2週間後、ホームステイ先にカリフォルニア州教育委員会から結果報告の書簡が届いた。私はドキドキしながら開封した。数学は満点に近い。物理は比較的良いできだったが、化学、歴史、地理、英語などはあまり良くない。
  だが、すぐに眼に飛び込んできたのは「ACCEPT」、つまり「受け入れOK」の文字でした。晴れて大學へ進める有資格者となったのです 】と。

 どうですか、各科目の英語の分厚い説明文自体は、本来の学力を見るものとは無関係なものであり、他国からの応募者に対するそのハンディキャップを理由に、辞書の持ち込みだけでなく時間の延長までも申し入れるという、まさに試験の本質を突いたこの経緯は、おそらく孫少年の例しかなかったのではないでしょうか。ここにも理路整然と筋の通った話を進める孫氏の気質が見て取れます。
  またその申し出は、理に叶っているとして、それを受け入れたアメリカ教育界トップの度量の広いことも同時にわかります。

 このようなアメリカ社会の度量の広い例として、今も私・筆者の脳裏に印象深く残っているのが、東西の冷戦が終結した1989年、アメリカの国防総省が発表したニュースです。
  それは、政府の主要国防機関とその多くの関連研究機関とを結んだ回線が、どこを攻撃されても必ず別のルートを通して相互にコミュニケーションを保てるよう、国防総省が莫大な費用をつぎ込んで早くから開発していたシステム、いわゆるインターネット機能、それを世界の経済振興のためにと、商業用一般にも使えるよう、この機を境に民間へ無料、つまりタダで開放するというニュースでした。
  これによって今日、世界中の何十億人というスマホやパソコンのユーザーが、日夜、その恩恵を受けているわけです。

 こうして孫少年は1975年の9月にホーリー・ネームズ・カレッジに入学しました。18歳になったばかりで、日本にいれば高校3年生です。1年半の遅れを取り戻すどころか、結果、1年も先取りをしてしまったことになります。
  そしてさらにこの大学時代に、アメリカ留学の目的を片時も忘れることなく努力したことを、次のように語っています。

 【 行ったアメリカでは、めちゃくちゃに勉強しました。日本の高校を退学までして、自分で望んで行ったわけですから、言い訳は言いとうない。だから、もう死ぬほど勉強しました。
  それまで日本にいて、高校1年まではイヤイヤ勉強してましたよ。イヤイヤ勉強してるから、いろいろな言い訳言うとった。したくないものをしてるから。
  何のために俺は勉強せにゃいかんのや、と。こうやって言ってましたから。“こんなもの世の中に出て役立つんかー!”とか言ってましたから。たいがい手抜きの勉強でしたよ。
  でもアメリカに行って、それこそ血を吐いてる父親を置いて、泣く母親を振り切って、アメリカに行ったわけですから。そういう状況の中で、わしがここで言い訳言って勉強さぼってどうすんや! と。弁解はしたくなかった。 英語がよく分からないから、お金がないからなど、自分を慰めることは許せなかった。
  学生のわしにとっては勉強が本業や。本業中の本業に命燃やして、ちぎれるほど勉強しなくては罰が当たると思ってやったんです 】と。

 その猛勉強ぶりは、当連載のその6で「トイレに行くときも絶対に教科書から手を離さない、読みながらトイレに入る。道歩く時も教科書を読む、運転する時もイヤホンで授業の内容をテープでもう一度復習する。
  食事をする時も手から教科書を離さなかった。両手にフォークとナイフを持って、料理を見ながら食事をするなどというぜいたくなことは考えられなかった」と、見ていただいたとおりです。

 この猛勉強の先には、編入を考えていた進路先がありました。それはやはりサンフランシスコの郊外にある公立の名門校・バークレー大学です。
  ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学、スタンフォード大学といった名門一流私立大学に対して、バークレー大学はアメリカの公立大学ランキングで長期間にわたり常に1位を維持している大学で、ここからは69人ものノーベル賞受賞者が出ています。
  2017年のノーベル物理学賞を受賞したバリッシュ教授はここの卒業生であり、また、かのマンハッタン計画の主要人物、ロバート・オッペンハイマー博士もここの物理学部の教授
でした。

文部科学省が公開している「諸外国の教育統計」によれば、アメリカの公立大学の学費は私立大学の半分ほどで済み、だから孫少年は経済的理由からも、私立ではなく名門公立大学への編入を目指したものと思われます。
  そしてホーリー・ネームズ・カレッジの2年生の終わりに取った全科目Aの成績がものを言い、推薦もあって見事、バークレー大学へ編入したのでした。
このホーリー・ネームズ・カレッジの担任だったマルガレート・カーク先生は、当時のことを「一番思い出すのは、授業が終わったあと彼はいつも教室に残って、もっともっと私と1対1で話したがっていたこと。そして自分のアイデアを披露したがったことです。私も生徒からも学びたかったし、彼は教師との討論に加わる実力もあった。とても素晴らしい生徒でした」と語っているとおり、向学心のエネルギーに溢れる孫少年であったことがわかります。



 孫氏が学んだこれら高校、カレッジ、そしてバークレー大学は、ITのメッカ・シリコンバレーとも近く、このシリコンバレーの図を見ると、そこでは世界のIT企業がひしめく様がよくわかります。今日のソフトバンクの事業とも遠からぬ因縁があるわけです。
  孫青年はビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズと生まれが2年しか違わない同じ世代のIT獅子であり、やがて彼らとも友人関係になります。

 その学生時代、ある雑誌に載った写真を見て、感激の涙を流す出来事が起きます。それは今日のソフトバンクに深く関係してきます。また、今日まで着実に実行されてきているその後の人生50年計画もこのころに作ったものです。
  次回はそれらについて見ていきます。(次は夏休みのため、9月更新)

(連載・第十一回完 以下次回につづく)

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執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)

テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)

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