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その13 19歳で作った人生50年計画 すべて実現

 世に初めて雑誌に載ったコンピューターチップの集積回路。その拡大写真に涙まで流して感動し、それを切り取って透明なファイルに入れ、学校でも寝るときも片時も肌身離さず半年も続けたという孫青年は、このテクノロジーがいずれ人類の未来を変えるはずだ、と思ったようです。
 19歳のときの運命的なこの出会いから40年余り、そのときの感動が、通信用携帯端末のチップの設計を手がけるARM社を、昨今3.3兆円という、とほうもない金額で買収するという結果となって結実したわけです。

 この19歳というときを外せない話が、もう1つあります。それは10年ごとの大きな目標を定めた「人生50年計画」という、同じ歳のときに作ったもので、驚くことにそれらは、今日まで寸分違わず実現されてきています。

その人生50年計画とは、

というもの。

 孫氏は1957年8月生まれ。日本ソフトバンクを福岡で旗揚げしたのが24歳になったばかりの1981年9月のことでした。そして1994年、36歳で株式を店頭公開し、それを軍資金の元手にして、はやくもジフデービスの展示部門や世界最大のコンピューター展示会社コムデックスを買収、1995年の37歳のとき。そしてまだ産声をあげたばかりの学生企業ヤフーへの出資も、同じく1995年の37歳のとき。さらに翌年の38歳、1996年にはコンピューターメモリー最大手のキングストンテクノロジーを買収しています。

 そしていよいよ大きな事業に打って出るという40代。それはインターネットも含めた通信インフラ業界への進出でした。まず1998年半ば40歳でソフトバンクを東証1部に上場し資金を調達。そしてインターネットの総合ブロードバンドサービス事業のヤフーBBをスタートしたのは2001年の9月、44歳。つづいて2004年7月、46歳で日本テレコムを買収。さらに2006年4月の48歳ではボーダフォンを買収しています。
 ちなみに20億円の出資で孫氏の含み益が8兆円にもなった中国のアリババへ投資したのは、2000年の43歳のときで、そのときのアリババは創業1年目の赤字会社でした。またダイエー球団からソフトバンク球団になったのは2004年11月の47歳のとき。

 そして50代。アップル社のスティーブ・ジョブズに会って、日本でのiPhone発売権を獲得し、その営業を開始したのは2008年の50歳のとき。さらにアメリカにおける携帯業界への参入に向け、スプリント社を買収したのが2013年7月で55歳。そしてこれからやってくるIoT時代を見越し、3.3兆円もの大金でARM社を買収したのが2016年7月の58歳。
 最終の計画60代は、次の経営陣にバトンタッチということで、2014年7月、後継者の筆頭候補としてグーグルのシニア・バイスプレジデントだったニケシュ・アローラを副社長に招きましたが、2016年6月、彼の退社でこの話はなくなりました。
 この2018年8月、孫氏は61歳になったばかりで、今まさに後継者計画はスタート時点にあるということです。

 これらすべて実施されてきた50年計画の過程には、その都度、参考になり示唆に富むことが多々ありますので、以降、順次、見て参ります。

 孫氏は大きな計画を立てたとき、あるいはその大きな計画をスタートするときには、自分に言い聞かせ、また誰かにも宣言するという形を取っていますが、この50年計画の宣言は誰だったかと言いますと、孫青年と同じバークレー大学に通い、のちの伴侶となる奥さんでした。氏は次のように語っています。

 【 21 歳、私は翻訳機の開発以上に大きくて重要な決断をした。結婚だ。相手は日本人留学生で、同じ英語学校で知り合い、一緒にカレッジに通い、またバークレー校にも一緒に行った女性です。あまりにも忙しかったため、図書館で合い間に顔を見るのがすべてだったが、初めて会った瞬間から私は彼女が自分の妻になることを信じて疑わなかった。  
 人生50年計画を立てた19歳のとき、興奮のあまり演説をしたものも彼女の前だった。 私は彼女と米国で略式婚礼をしました。司祭と証人だけが立ち会う簡単な手続きを踏んだ。 最初に決めた日は、というと変だが、実は翻訳機開発に没頭するあまり約束時間に遅れてしまい、そこで司祭が怒ってしまったため、改めて新しい日を決めなければならなかったのです。
 2度目に決めた日も遅刻してしまったのですが、今度は幸い、司祭が待ってくれたお陰で、式を終えることができた。しかし証人を依頼することを忘れてしまい、急遽、教会の門衛に事情を話して頼み込み、急場をしのぎました 】と。

 大学時代における、翻訳機の開発と売り込み、インベーダーゲーム機の仕入れと売り込み、それと猛勉強については、当連載のその6からその8に掲載した通りで、とにかく多忙を極め、彼女とのデートも図書館で二人机を並べて本を読むといったような学生生活だったようです。
 こんな状況下での略式結婚式の日には、はからずも遅刻をしでかし、再度のリターンマッチにも証人依頼を忘れるという失態までしでかした青年は、時に21歳という若き学生結婚でした。
 その大学生活も、とうとう卒業する時期にあたり、それまでの猛勉強の結果、米国の数ある名だたる大学院から次々と誘いが舞い込むこととなりました。氏は語ります。

 【 アメリカでは優秀な学生はたいてい大学院に行き、そこで博士号まで目指します。僕のクラスメイトも優秀な学生はそういう人が多かった。僕が大学4年の時には、めちゃくちゃ勉強してましたから、私も母校のUCバークレーはもちろん、ハーバードだとか、スタンフォードだとか、MITだとか、「月謝はいらない、学費も入学料もいらないから、うちの大学院の博士号課程に来ないか」と、全額奨学生という招待状がいくつもの大学院から来ていました。そのくらいむちゃくちゃに勉強していて、教授からも推薦状が出ていました 】と。


 孫正義会長は米UCバークレー大経済学科在学当時、学費を準備するために発明に没頭した。写真は孫会長(真ん中)と彼のアイデアを現実化するのに協力した工科大の研究員。
 翻訳機とインベーダーゲーム機のビジネスで、会社名ユニソン・ワールドを設立していた学生経営者の孫青年でしたが、大学院よりも事業のほうの道に進むことを選んだのです。しかし、そのままアメリカに残ってビジネスをするか、それとも日本で起業するか、随分迷った末に日本を選びます。その経緯を次のように語っています。
 【 いよいよ卒業も間近、とうとうその時期が来てしまいました。日本を出るとき、涙を流し悲しんだ母に約束したとは言え、多くの点からみてアメリカに残る方が有利だと思いました。日本でビジネスを始めるとなると、アメリカの何倍も難しい。第一、日本での融資依頼には担保が必須です。アメリカなら、事業内容そのものを評価するベンチャーキャピタルで資金を調達できます。

 友達の多くも、日本に帰ればすべて一から出直すことになるので、帰るなんて正気の沙汰ではないと言っていました。起業してせっかく軌道に乗せ、さらなる成長が見込めるユニソン・ワールドをそのまま継続させるほうがずっと楽です。学友で一緒にその会社をはじめた副社長、ホン・ルーはも“成功しているのにどうして日本へ帰るのか”と大反対しました。 
 だから、それを彼に譲って、それこそ一から出直さなければならない日本に帰ることがいいのか、随分と悩みました 】と。

 しかし結局、孫青年は帰国を選び、日本でのビジネスの道を進むことになります。ではなぜ日本を選んだのか、次は1992年の5月号のハーバード・ビジネス誌に載ったインタビューに応えた内容です。

 【 さらなる成長が見込めるアメリカでのビジネスを考える一方で、日本での成功も頭の中にありました。いつか自分は大きな会社を持てる、グローバルなビジネスとして会社を成功させることができる、そんな気がしていました。強烈な願望さえあれば、何でも達成できるはずです。
 そういうことが出来るとすれば、本社は日本に置くべきだと思いました。なぜなら、日本では事業を始めることは難しいかもしれないが、いったん軌道に乗れば、その方がやりやすいと思ったわけです。
 というのも、社員がすぐに退社してしまうアメリカと違って、日本では会社への忠誠心も強く、社員は長く勤務してくれるし、また一生懸命働いてくれる。
 だから日本を拠点に本社を大きくしてから、グローバルなビジネスへと展開すればいいと思ったのです
 僕は日本が大好きなんです。本当に好きなんです。やっぱりカレーライス食ったらおいしいと思うし、ざるそば食ったらおいしいと思うし、年越しそばを食わないとなんとなく年が明けたような気がしないし 】と。

 こうして帰国を決意した孫青年は、一緒に起業した友人の副社長に“いつの日か、私が日本で始める事業が大きくなったら、またパートナーになろう”と、当初の約束通り社長ポストを彼に譲り、経営をすべて彼に任せて日本に帰ります。
 その後、この会社は日本円にして年商100億円にもなるまで成長しましたが、その友人は中国で事業を始めるために会社を売却。その資金で中国本土に興した交換機関連の会社はナスダックにも上場、ソフトバンク社を筆頭株主とし、また孫氏も非常勤の会長となって、帰国時に約束した言葉どおりパートナーとしての関係を保っています。

 ではいよいよ日本での事業の幕開けです。でも日本で事業登記をするにあたり、親族間で一悶着がありました。

 【 福岡市内の古いビルの二階に、企画会社としてアメリカと同じユニソン・ワールドという名前で事務所を開くことにしましたが、日本姓である「安本」ではなく、アメリカでも使っていた代々伝わる韓国名の「孫」の名で会社の登記をしようとしていたところ、“正義よ、お前は、まだ子どもだからわからないんだ。学生上がりで、世の中ってもんがわかっていない。韓国名の孫の名前で出ることが、どれだけのちのち苦しむことになるのか‥‥。悪いことは言わん。安本の名前で行け。おまえが親戚として1人そうやって孫と名乗ったら、俺らまで全部ばれる”と、親戚筋からの猛反対に会いました。

 それはそうかもしれない、日本にいても外国人登録証を携帯していないと逮捕された時代を経験し、親族みんなが小さな社会の中で名前を隠し苦しい思いをして生きてきたのですから、気持ちは素直によくわかります。
 しかし僕は“皆さんのように苦しい体験をしていないから、確かにわからないところがあるかもしれない。しかし、僕の人生です。どんなに辛いことがあったとしても、それはそれでいい。そんなコソコソ隠すような人生は、僕には合いません”と言うと、“そんなきれいごと言っても、実際には銀行が金を貸してくれなかったり、お客や社員が集まらなくなるんだぞ”と。

 そこで言いました。“おじさんやおばさんに僕は迷惑をかけるかもしれない。そしたら、僕が親戚だとは言わないでいい、他人のふりしていていい。孫正義と堂々と名乗って、堂々と逆風の中で仕事して、事業してそれなりになれば、差別反対なんて100万語でしゃべるより、力説するよりもずっといい。
 おじさんおばさんはもう立派な大人で、少々の差別には立ち向かえるだけの力があるかもしれませんが、もっと広い意味で、同じ問題で悩んでいる青少年や子供たちに、いささかでも希望の光を与えられることにつながるのだから”と、決意を伝えたのです 】

 他民族国家のアメリカで安本名ではなく、堂々と孫の名前を名乗り、学生生活の6年間を過ごした経験が背景となって自信となり、また日本で同様な境遇にある青少年への使命感ともなっている確固たる行動であることが、そこに読み取れます。
 そして、続けてこう言っています。

 【 私は私流のやり方でアイデンティティーを持つことにして、最初から孫を名乗ることにしました。おやじは黙っていました。それで、もし社員が一人も集まらなくてもいい、お客さんができなくてもいい、銀行が貸してくれないならそれでもいい。それでもなおかつ自分を認めてくれる人が、本当の社員であり、本当のお客さんであり、本当の銀行だと思ったんです。
 国籍の違いで離れていくような人は、むしろ自分が後で恥ずかしい思いをするだけだと思ったのです 】と。

 その後、氏は1991年11月に帰化していますが、その後、数年がかりで日本国籍を取得する経緯は、当連載のその1でお伝えした通りです。
 さて、登記は済んだものの、大事なことが終わっていません。日本でどんな事業を始めるのか、という一大仕事です。
 “新しい事業をゼロから始めるにしても、やみくもにやるのでは長続きしない。やる以上は、自分が本当に納得して、一生それを追い求めつづけていける事業でなければならない”として、それを決めるまでに1年半もの時間をかけているのです。
 この経緯も、皆さんの参考になるはずで、次号で詳しく見ていきます。

(連載・第十三回完 以下次回につづく)

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執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)

テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)

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