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その15 数名しか集まらなかった記者会見

 40ほど挙げた新しい事業候補のリストを、25項目から成る要因条件の選別フィルターにかけ、そこで最後に選び出したのがソフト流通事業でした。
 社名を日本ソフトバンクとしたのは、銀行(バンク)が産業活動を支えるインフラなら、この会社は将来、日本の情報社会のインフラを提供する会社という思いを込めたもの。その事務所は父親所有物件、西鉄雑餉隈(ざっしょのくま)駅近くにあった建物の中にあり、古い扇風機がウィンウィンと回っている2階で産声をあげたのでした。
 資本金1000万円の新会社。1981年9月。孫青年は24歳になったばかり。その創業の日、青年の心の内は、やる気満々の闘志でみなぎっていたであろうことは、想像するに難くありません。その第一声を氏は語っています。

いずれは1兆円企業にする、とアルバイト2人を前にしての初朝礼

 【いよいよスタート。社員などはまだいなく、手伝うのは市場調査などの資料集めで雇っていたアルバイトの2人だけでした。創業初日の朝礼で2つ並べたミカン箱の上に立ち、その2人を前にして“この会社は5年以内に、売上高100億円になる。10年以内に500億円、いずれは1兆円企業にする”と、目標を掲げたんです。
 すると2人はあっけにとられたように、ポカンと口を開けて聞いていました。そして、とても正気ではないと思ったのか、「あいつはおかしい」「狂ってる」という感じで、まもなく2人とも辞めてしまいました 】と。

 中・小規模の企業はもちろんのこと、その生い立ちから躍進に到るまでの過程を調べていきますと、今日存在するどの大企業といえども、創業時点では1人、あるいは多くて2〜3人で始めたものばかりです。しかも最初からすべてに渡り順調にいっていた例は、内外の超大企業270社といえども皆無でした。
 今や年商が9兆円規模となったソフトバンクと言えどもその例外ではなく、出だし時期が一番苦しかったと、その創業当時を回想しています。
 今日、起業が増えているIT分野だけでなく、新しく事業を始めようとする若者の皆さんにとっても、氏の語る次の言葉は特にお役に立つとのではと思われます。

振り返れば、創業当初の1〜2年が胃の痛む日々だった

【 今思えば、今日までの道のりの中で、一番苦労したのが最初の1~2年、毎日が胃の痛む思いでした。市場開拓や銀行とのやりとりによる資金繰りだけでなく、大きなものから小さなものまで入れると、数え切れないくらいの壁、また壁でした。
 考えてみれば動物の赤子と同じで、初めて外敵やら病魔にさらされる最初の1~2年を乗り越えるまでが波乱万丈なわけです。このステージを乗り越えれば、自分の足で立ち、また免疫も出来て、自分でやっていけるようになります。
 ここで改めてベンチャー会社をスタートさせる方々には、そこを何とか歯を食いしばって乗り越えさえすれば、後は意外とスムースに行きますよ、とアドバイスしたいです。
重要なのは、この時期すべての経営の基本がそこに入っていて、人事、技術、資金、営業、その他、全方位の体験ができることです。ここで真正面から取り組むことこそが、将来の自分たちにとって一番重要なことだと伝えたいのです。
 そしてこれまでの会社経営で一番学んだことと言えば、やはりまず志を大きく持つこと。それを非常に強く真剣に思って、なおかつそれに向って努力していけば、方法論や道はおのずと開けてくると実感しています。思いの大きさ、強さ、方向性、それが一番大切です。
 僕自身は特別何かの専門家でもなく、またこれだけは誰にも負けないという特技を持っていたわけでもありません。その思いが強く、しかも方向性さえよければ、多くの専門家が自ずと集まってきて協力してくれるものです 】と。

 氏がこのメッセージの中で伝えたいことは、どんな業種にしろ、その創業初期には必ず辛酸きわまる苦労が付きものであること、そして出発に際して志の有無が、のちのビジネスにおける成否の鍵をにぎっているということです。
 そしてもう1つの重要なメッセージは、創業時に会社経営に必要な人事、技術、資金、営業、その他、この全方位の体験ができるということで、そこから大企業のサラリーマン社長とは決定的な違いが生れると、2015年6月の日経ビジネス誌に次のように語っていることです。

リーダーのトータルバランスが大事

 【会社のトップとして勝ち続けていくためには、やっぱり最後はリーダーのトータルバランスだと思います。
  一時的には少なくともその何かとがった部分でバンと抜きん出て、シェアを伸ばさなければいけないのですが、最後に本当の王様になろうと思ったら、やっぱりバランスよく保たなきゃいけない。
 日本の大企業経営者の特徴としてあるのは、営業は営業畑ばっかりでずっと来たとか、技術は技術畑だけでずっと来た人が、ある日、何人かいる役員、専務とか副社長の中から突然社長に任命されるというケースです。
 そこではいきなりトップの役割をしなきゃいけなくなる。それこそ営業についてやたら詳しいけど、残りは半人前だと。技術についてはやたら詳しいんだけど、ファイナンスがわからないとか、そういういわゆるサラリーマン社長が多いということです。
 しかし小さいながらも最初からトップの役割を果たしてきた人はしぶといです。創業社長が強いのは、小さいながらも知識の面も苦労して、営業も苦労して、技術も苦労してきているからです。
 ユニクロの柳井さんとか、日本電産の永守さんとかは、少々好景気不景気いろいろあってもしぶといですよね。
 何かあってもはい上がっていく。いよいよ今度こそだめだぞとか、もうフリースが売れなくなったらだめだとか思っても、やっぱりしぶとく次に進んでいる。
 それは小さいながらも最初からトップをやって、資金繰りも苦労して、営業も苦労して、技術も苦労して、人事も苦労して、社員がやめていくなんていうのも体験しているわけです。
 だから、結局バランスよくトータルでリーダーとしての役割を10年、20年、30年続けて、そのパワーバランスのままどんどん強くなっている。
 ところが、大企業のサラリーマン社長というのは、そうでない場合が多い。もう営業だけだったり、技術だけだったり、もう技術の面でガンと抜きん出ていても何かあるとつまずいてしまう。個人名を挙げると差し障りがあるから挙げにくいですけど 】と。

 そしてさらに氏はこんな見方をして、続けて語っています。

 【大企業のサラリーマン社長でも、本流から外に出されて戻ってきた人というのはしぶといです。鍛えられているから。しかし、将来の社長とか目されてずっと大事にされてエリート路線できた人はポキッともろかったりするんです。
 かなり若いときから将来社長だって言われ、実際に社長になった人もいる。ある製品をバンとたたき上げて、もう華々しく成功させて、技術中心に自分のポジションを作り挙げていって、ダーンと若くして社長まで上り詰めたけど、じゃあ、営業ということについてどうなんだ、資金繰りということについてどうなんだ、市場が劇変したときにどうなんだというと、これは別問題なんです。だから、折れるときはもうカクンと折れちゃう
 それはもちろん本人一人のせいじゃないと思いますが、本当はその人が若い段階において、残りの才覚の部分を合わせて鍛えられていたら、もっと進歩があったと思うのです。 だから子会社の社長やグループ会社の社長をやって、社長業を身につけていればよかったのです。
 柳井さんだとか、永守さんだとか、楽天さんだとかいろいろな会社が、一生懸命頑張って日本の若い世代から成功事例が幾つか出てくれば、日本の経済もさらに発展していくと思うのです 】と。

 内外のメーカーや金融、そしてサービス業における大企業の破綻を見ますと、その破綻時のトップはほとんどが例外なくサラリーマン社長です。しかも超一流の大学出身者が名を連ねています
  さらに日本ではまたかと思われるほど、次々と繰り広げられる有名企業の謝罪会見。松下幸之助氏にしろ、本田宗一郎氏にしろ、ソニーの井深大氏や盛田昭夫氏を初め、その他、起業して躍進していったトップの人たちの謝罪会見は見たことがありません。すべて謝罪時における会見は、どこの大企業もサラリーマン社長にバトンタッチした後によるものです。
この背景にある根源を辿れば、やはりこのトップにおけるバランスに行き着くのではないでしょうか。

 さて、九州での旗揚げ後、孫青年はどうしたか。この旗揚げの3年前になりますが、留学先の学生時代に開発した「多国語間音声翻訳機」のシャープへの売り込に成功した話は当連載その7で見た通りです。そのときのシャープの決定責任者は佐々木正専務でした。
 以降、この方に何かにつけお世話になることから、孫青年の恩人の1人になる方ですが、この旗揚げした際に佐々木氏からの助言は“時流ものを取り扱っていかなければならない事業は、地方にいてはダメだ。ソフトウェア事業をするのなら、情報密度が高いところでしなければいけない”というものでした。

 当時、青年は経営の「いろは」を学ぶため、東京に本社を持つ(財)経営総合研究所の九州セミナーに参加していましたが、ちょうどそのころ、この財団が独立組織を別に作って、「研修」や「コンサルティング」、そして「パソコン事業」に乗り出そうとしていることを知り、これは東京へ進出するチャンスとばかりに資本参加するとともに、市ヶ谷の同財団事務所の片隅に机2つのスペースを間借りして、東京事務所を開くのでした。
 そして当時としては、とんでもない記者会見を開くのです。会見の事務局番でそれを受け付けたのは、私の知人でもある日刊工業新聞社記者の霧生氏でしたが、“ソフトバンクといえば今では、海外のマスコミ特派員も含めて会見場には、入りきれないほどの沢山の記者が集まるが、その創業間もない頃は見向きもされなかった”と、次のように語っています。

数名しか集まらなかった記者会見

 「1981年、私はコンピュータ関連のソフトウェア産業担当記者をしていた。たまたま経団連の記者クラブで、幹事当番に当っていた時、聞いたこともない会社から“パソコンソフトの流通事業の開始について記者会見を開催するので、記者の皆さんにご出席いただきたい”との申し出を受けた。
 よく聞けば、日本ソフトバンクと名乗る設立間もない会社だと言う。知名度が全くない小さなソフト関連会社が、経団連の記者クラブまで会見を申し込んでくるなど、前代未聞のことだった
 当時コンピュータ界はIBM全盛期がつづいており、大型の汎用新機種を発表すると、すぐ国産メーカーの発表が追随する、というハードウエア中心の熾烈な闘いが繰り広げられていたので、記者達の関心はもっぱら処理スピードや記憶容量などにあり、国産機がIBM機を上回ったかどうか、今後の国内マーケットシェア争いはどうなるか、といったことばかりに集中していた。
 したがって、ソフトウェアのニュースが記者クラブで発表されるなどということは皆無で、ソフトウェアや関連産業自体、世間では全く認知されていなかった。

 大小ハード関連の発表が1日あたり数十件にも上っていた当時、最もポピュラーな発表スタイルだったのが資料配布形式で、会社側の広報担当者が資料を持って記者クラブを訪れ、そこで説明が必要ならば応対するというものだった。
 だからIBMや国産大手メーカーの首脳が出てきて会見を行うといった相当インパクトのあるテーマでないと、記者達はなかなか足を運んでくれない。知名度や実績のない小さな会社で、ましてやソフト関連のテーマなどに記者は見向きもしなかったのである
 が、だからといって“そんなソフト小会社の記者会見はけしからん”ということではなく、原則としてクラブ加盟社から特に異議のないかぎり受け付けることになっていたこと、またソフト産業担当記者として、私はこういった申し込みがいずれ日常的になることを望んでいたこともあって、それを快諾した経緯がある。ただしその時、先方に“記者会見を開いても、恐らく記者は数名しか集まらないと思う。私も他社の記者に声を掛けるが、御社も記者クラブ以外のコンピュータ関連専門紙や雑誌社に声を掛けた方がよいと思う”と率直にアドバイスした。数日後の記者会見の会場はパレスホテル。やはりというか、そこには集まったのは5~6名だけだった

 この時、私は初めて孫氏と会った。彼は、遥かに年長の記者を目の前にして全く臆することなく、こんなことを言っていたのを覚えている。
 “パソコンソフトのメーカーからソフトを仕入れ、全国のパソコンショップなどの小売店に卸すソフト流通事業は、情報産業のみならず、情報化社会のインフラの役割を担うことになります。銀行が広く金融や経済界の大きな社会基盤・インフラの役目を果していることを考えて、社名を日本ソフトバンクとしました”と。
 次の日、私の60行以上書いた原稿は僅か十数行に削られてしまった。不本意な扱いをしたデスク殿にクレームをつけたが、無視された。他の産業・経済関連の新聞も同様の扱いであり、ましてや一般紙の経済面には掲載されなかったのだから、それも当然だった

 想像できますか。誰もが見向きもしなかった、開業当時のソフトバンクの姿です。ミカン箱に乗って初朝礼をした青年が、今やトランプ大統領やプーチン大統領に直接会う機会を持てるまでになっているのです。
 やはり、このように前代未聞の記者会見を考えてしまうような青年には、こののちの会社が成長していく過程で、どなたにも大いに参考にしていただけるような発想や言動が次々と出てくることから、以降順次、見ていくことにします。

(連載・第十五回完 以下次回につづく)

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執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)

テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)

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