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その20 病床で気づかされた人生の宝

 医者から「長くても、あと5年の命」との宣告を受けた孫青年。決定的な治療法が発見されていなかった当時、肝硬変は不治の病でした。
 事業を初めて1年半。創業時は3人だった社員も125人になり、いざこれからというときの、死の宣告です。1983年の春、25歳半ば。“なんで俺がこの若さで肝臓を患うんだ、生まれたばかりの子どももいるのに、なんでこの俺なんだ”と、ベッドの上で込み上げてくる青年の悔し涙が痛いほどわかります。

 設立したばかりの会社ゆえに、社長が倒れたということが外部に知られれば、銀行は融資を止め、“あの会社は危ない”ということで、ビジネスへのマイナスインパクトは、はかりしれません。
 だから、重要な記者会見にはそっとベッドを抜け出して出席したり、また会社の重要な会議には無理して顔を出していたのです。
 度々そんな行動をとる青年に、とうとう主治医はカミナリを落とします。氏は語ります。

初めて深く、自問自答

【 或る日、私が病室を抜け出して会社に行くところを目にした主治医の先生から、こっぴどく叱られました。
 “孫くん、何をしているんだ? 自分で自分の命を縮めてどうするんだ? なんのために自分の命を縮めるような行為をしてでも会社にいくのか?”と聞かれたのです。
 たしかにそれまで、“なんのため”と、その根源ともいえるところまでは深く考えていませんでした。
 会社のため? お金のため? 名誉のため? あるいは・・・。どうして自分は死ぬ思いまでして病院を抜け出し、身を削って働こうと思うのか、初めて自問自答しました。

 入院する前は、少しでも日本ソフトバンクを大きくしたい、ライバルに負けたくない、少しでも多く稼ぎたい、いい家に住みたい、うまいものも食べたい、などなどいろいろな欲望がありました。
 でも、あと5年もつかどうか、死ぬかもしれない。そうなると、欲しいものなんてなくなるんです。
 毎日パジャマで過ごしているので、かっこいい服を着ようなんていう欲望は消え失せます。かっこいい車が欲しいなんてサラサラ思わない。お金を稼いだって、どうせ5年で死ぬんだから家なんていらない。
 突然死ぬよりも、それはある意味つらいことです。限られた人生で余命を宣告されるわけですから。
 そういう中でつくづく考えました。何のための人生か、何のための会社か 】と。

 命がおびやかされる「絶望」という淵にまで追い込まれた生涯最大のピンチ、ここからが重要なところです。死の宣告を受けたからこそ、人生というものを深く考え、そこで初めて気づかされたことがあるのです。氏の言葉は続きます。

死を覚悟して悟った人生観

【 その時に、私が心の底から思ったのは、幸せとは何かということです。会社を大きくしていくことが幸せなのか、あるいは多く稼いでおいしいものを食べ、高価な洋服で着飾り、豪邸に住み、高級車に乗るといった、ぜいたくな暮らしをすることが幸せなのか。
 物理的な豊かさか、あるいは見栄か、格好か、大義名分か、社会的に形式張ったことなのか、自分は何があったら幸せか、改めて考えると、生まれたばかりの娘や家族の笑顔をみること。もうそれだけで幸せだと思うようになってきたのです。

 さらにこの時ふと思ったのは、家族の笑顔だけでいいのかということです。一緒に創業した社員は家族同様ではないか。彼らは自分の家族の延長線で、彼らの喜ぶ笑顔も見たい。そこでまた考えました。じゃあ、彼らの笑顔だけでいいのか。
 創業時に手をさしのべてくれた恩人たち、その後ろには50人、100人、1000人の社員もいる。また多くのお客さまたち。この人たちはある意味、家族以上に大事な人かもしれない。彼らの喜んでいる笑顔も見たい。
 では、どうしたら多くの人の笑顔が見られ、喜んでもらえるのか。そこで人の命を救えるお医者さんや、特効薬をつくる製薬会社を考えると、これはわかりやすい。直接生命に関わる仕事で喜んでもらえるから。
 では自分の仕事、日本ソフトバンクはどうか。情報産業もさらに突き詰めていけば、もしかすると人の命を救う力になるかもしれない。あるいは直接でなくても、"いや面白い、幸せだ、こんなにも豊かな人生があったのか"と、心の底から感じてもらえるものを提供すれば、それはそれで生命を救うのと同じくらい価値のある仕事になる。

 そう思ってみると、まだ一度も会ったこともない人たちや、地球の裏側にいて、果物をかじりながら泥だらけになって遊んでいる女の子たちが、孫正義のやった仕事なり、日本ソフトバンクが係わったものに、ニコッとして"ありがとう"と喜んでもらえたとき、感謝してもらえたとき、そのときの彼女たちの笑顔を想像すると鳥肌が立ちました。このときこそ究極の幸せな思いが得られる、と。
 このようなイメージを描くと、もう地位も、金も、名誉も何もいらない、もうそんなものはどうでもいいと思えるようになったんです。つまり人知れず喜んでもらうことのために、自分に残された人生を過ごせたら、これ以上幸せなことはない。キザなようですが、心底、そう思ったのです 】と。

 本当の幸せとは何か、それを深く考える時間が持てたことで、青年は誰もが笑顔で喜んでくれる「利他の心」に改めて目覚め、もしも病が癒えて回復できるようなことになったら、以降のビジネスの繁栄に繋がる最も貴重なハートを手に入れたことになります。
 さらに沈んだ気持ちを一転させ、たとえ短い生涯でもと、青年を振るい立たせたのが、再びあの龍馬だったのです。氏は語ります。

再び龍馬の生き様が光明をもたらす

【 ベッドの上で他に何もすることのできない病床生活をつづけるうちに、この機会は"少し体を休め、たくさんの本をじっくり読んで考えてみよ"と、神様が与えてくださった貴重な時間、試練の場だと思うようになったのです。
 そこで、「ランチェスターの法則」などの経営書や、歴史書、ビジネス関連書などを中心に、手当たり次第、約4,000冊ほど読みました。
 その中の1冊、「竜馬がゆく」を読むのは、このときが二度目でした。最初に読んだのは、脱藩して大きく羽ばたく竜馬が、私のアメリカ行きを決意させてくれた15歳のときです。今回病床の身で違った角度から読み返すと、改めて教えられたこたがありました。

 当時、龍馬は新政府用に新官制議定書を作成しました。西郷隆盛がその新制度と指導部の青写真を見るなり、竜馬に向って"この指導部の草案の中に、なぜ最大の功労者であるお主の名がないのだ"と問うと、"世に生を得るは事を成すに有り。役人になるより、ワシは世界の海援隊でもやりましょうかな"と言って、ゆうゆうとその場を去っていく。
 なんという大きな考え方か、なんという痛快な生き方か、私は男としての生きざまを、改めて彼から学びました。そしてたとえ死を宣告されたとしても、それまで面白おかしく、精一杯生きればいいじゃないかと、龍馬が問いかけてきたのです。

 龍馬はあれほどの仕事をしたのに、31歳そこそこで命を落としている。自分もあと5年で31歳。その残りの時間を、5年しかないと考えるか、あと5年もあると考えるか。龍馬のやったことを思えば、その間、何でもいっぱいできるじゃないか。そう思ったら、何を俺はくよくよしているんだ、俺はバカではないのか、そんな小さな器でいいのか、と自分で自分が恥ずかしくなったのです。
 たった一度の人生。このとき龍馬は私に、あと5年といえども、とにかく前向きになって、どれだけでも痛快に生きることを教えてくれたのです 】と。

 ネクラからネアカへ。龍馬の生き様から青年は生きるエネルギーをもらったことがわかります。このくだりは皆さんの人生においても、大いに参考にしていただけると思います。このあとどうなったか。これは考え方次第で、その後の人生が大きく変わることが、今後の展開ではっきりとわかります。
 ちょうどよい機会なので、この考え方とその過程に関連して、京セラやKDDIの創業者・稲盛和夫氏及びアップルのスティーブ・ジョブズ氏の話を、ここで紹介いたします。

不運が続く少年時代と青年時代の稲盛和夫氏

 稲盛氏の少年時代と青年時代は「何で自分だけが・・・」という不運がこれでもかと続くのです。大事なことなので、少し詳しく見ていきます。
 まずは小学校6年のとき。担任の裕福な家への「えこひいき」をよしとしない稲盛少年は担任からにらまれ、理不尽なことを書かれた担任の内申書のため、自分より成績の悪かった悪童たちは全員合格していたにもかかわらず、1人だけ志望した名門中学が不合格となります。やむなく高等小学校に進んだものの翌年、今度は違う先生の内申書で再度挑戦。
 しかし、受験日寸前に発熱、もうろうとした中での受験で2度目も失敗。これが「自分はなんと運がないのだろう」と思い始めた最初です。レベルを落とした中学に入り、高校は無試験のところへ進みます。

 その3年生のとき、学校のボランティア作業に出ると、3年生は3~4人程度しか出ていなかったため、3日目にズル休みをします。すると休んだその日に限って点呼があり、事前に察知した大半の3年生はその日だけ出席していて、結果、先生から“お前はエゴイストだ”とこっぴどくやられ、皆の前でつくづくバツの悪い思いをするのです。
 それに追打ちをかけたのがキセル事件。他の友人全員がセーフだったのに、稲盛少年だけが車掌に捕まり、常習犯扱いで定期券は没収。罰金を正規料金の何倍もとられたあげく、翌日の学校では職員室の掲示板に顛末を記した紙が貼り出され、皆の前で説教を食らうのです。この頃から「なんで自分だけが……」の思いが、頭をもたげ始めます。

 そして大学受験で挑戦した大阪大学の医学部薬学科に、またもや失敗。そこで地元の鹿児島大学へ。そして就職時期。入学した頃は好景気だったのに、卒業時は正反対というタイミングの悪さです。そこで一般求職の多かった東京まで出かけるもののことごとく失敗。このころ氏は「自分はこの世で無用の人間ではないのか」とまで思い始めます。
 このとき、コネのある卒業生だけが優先採用される理不尽さを目の当たりにして、稲盛氏は“貧乏人が報われず、不平等が横行しているそんな世の中よりも、義理人情の仁侠世界のほうがずっと人間らしいと、地元ヤクザの事務所前を行き戻りつつするのです。“もし私が本当に仁侠の世界に入っていたなら、空手をやり身長183cmの巨漢であった自分は、本来の負けん気の強さで、恐らく九州ではちょっとは名の売れた任侠一家をつくっていたと思う”と語っています。

 そこで心配した大学ゼミの担当教授のはからいで就職したのが、花形産業とは正反対の無機化学の世界。しかもそこの給料は最初から遅配、ボーナスどころではなく銀行管理下に入っている再建途上の赤字会社でした。
 だから、今にも落ちそうな床に畳表はボロボロの臓物のよう藁が飛び出している社員寮で、毎日七輪で火をおこし自炊する侘しい日々が始まります。
“そんな中だから、会社での研究も、人間関係もうまくいかず、心の傷が積もり積もって、どうにもならなかった。日が暮れると、寮の裏の小川のほとりに腰かけて、唱歌の“ふるさと”を思い切り歌うことで、自分を元気づけていた。しかし、社内外で会社の悪い評価ばかりで、私はやる気を失っていくばかりだった“とは、そのときの心境です。 

 そしてさらに “なぜ、自分だけが・・・”の追い討ちに遭うのです。
 同期で入った大卒5人のうち3人もが、入社半年も経たないうちに会社に見切りをつけて去り、残った2人で愚痴をこぼす日々の中、いっそ自衛隊の幹部候補学校にでも入り直しそうと、2人で試験を受けた結果、2人とも合格です。ところが稲盛青年にだけは、謄本など入隊手続に必要な書類が期限までに実家から届かず、結局、彼一人だけが会社に取り残されてしまうのです。遂にどん底に至った青年は語ります。

腹を決めた稲盛青年

 「ここに到って、はじめて私は深く考えた。八方ふさがりの状態で、いつまでもすねて、毎日ぶつぶつ言っていても、どうなるものでもない。どれだけ自分の人生をうらんでみても、天に唾するようなもの。決して無駄にすごしてはならない自分の、たった一度しかない貴重な人生ではないか、と。退路を断たれた私は、とうとうここで腹を決めた。たとえ働く環境が悪かろうとも、自分の運命をその傾きかけた会社で切り開いていかざるを得ないのではないか。どんな環境であろうが、常に前向きに生きてみよう、と考えを改めたのです。
 この心のありようを変え、仕事に一生懸命取り組むようにしてから、私の人生は、まさに好転しはじめ、私の運命が変わった
 原料を充填する際の圧力計すら無い会社で、またそれを買ってほしいとは言えない新参者ゆえに、歩幅を決めて体重をかけ、それを圧力計がわりとし、コツコツ研究に集中しているうちに、次第に思い通りの実験結果が出るようになって、地味な実験の毎日も楽しくなっていった
 こうして入社1年半後、新しいセラミック材料の開発に日本ではじめて成功したのです」と。

 まさにここでパッと一筋の光が差し込み始めたのは、氏自身の言葉でいう、ただ「心のあり方を改め、考え方を変えただけでした。このあと、新たな製品開発に取りかかりますが、またもや災難がふりかかるのです。
 その開発で苦労している最中。社長や氏の上司まで外から来た人に変わります。そして骨董屋出の新米上司が成果の出ていない稲盛青年に向って「君の経歴と技術ではそこまで。後は私が他の技術者を入れてやるから、君はこの開発から手を引いてくれ」と、言い放つのです。
 では稲盛氏はどうしたか。氏は次のように語っています。

 「鼻であしらい、何か小馬鹿にしたようなその言葉を聞いて、私は間髪を置かず言い放った。“それでは私は会社を辞めます。今日限り辞めます”と。過去の経緯も知らず、倒産寸前の会社の劣悪な環境の中であっても、夢を描き、寝食を忘れて仕事に打ち込んでいた、私たち若者の苦労を無視するばかりか、その心情をまったく理解しようともしない。
 そのあげくにこの仕打ち。そんな信頼も尊敬も置けない人の下では絶対に仕事はできない、そう考えたからだ。私の実績を買ってくれていた当時の役員たちは慰留に来たが、私も薩摩人のはしくれである。一度辞めると啖呵をきった以上は撤回するわけにはいかない。しかし、突然退社を決めたはいいが、その後何をすべきか、まったく何の考えもなかった」と。

 このあと資金援助をしてくれる先輩がいて、青年を慕って共に退社した部下7人とともに創業を始めた会社、それが京セラでした。
 さて、氏の足跡を振り返り、一考も二考もしていただきたい重要なメッセージがあります。もしも氏の中学受験、大学受験、就職試験、ヤクザ入り、自衛隊入隊が、どれか1つでもうまくいっていたとしたら、まったく違った道に進んでいたはずです、どの一つが欠けたとしても、今日はなかったということです。
 つまりこれら一連の流れは、氏の栄光、京セラそしてKDDIの誕生と繁栄にはなくてはならなかったもの、と考えることができるのです。ここが非常に重要なところです。
 偶然と思われがちなことも、すべてつきつめていきますと、それは必然性につながります。これを、結果論として片づけられないのです。すでに起こってしまった過去は厳然たる事実でくつがえすことはできません。

 稲盛氏が、愚痴をこぼし続けていたら、恐らくその後も、不具合が続いたと思われます。
 しかし、外から見た物理的なものは何も変わっていなくても、氏の意志で“後ろ向きの姿勢から常に前向きに”と変えた、ただそれだけで事態が反転したのです。ここに、結果論では片づけられない、本人の“意志”がはっきりと係わっていることです。
 この心のありようを変えるのに、膨大なエネルギーが要るわけではありません。しかしその中身は、人生すべてを変えてしまうような、ものすごい力をもっているということです。
孫青年のその後の人生と関連する重要なことなのです。
 
アップルの創業者、スティーブ・ジョブズも同じように、こんなことを。

 「自分の生涯で歩む道をあらかじめ見据えて、そこでそれぞれ起きるであろう出来事を、あらかじめ点と点としてつなぎあわせることなどできません。
 だからその時は分からなかったのですが、やがて自分で始めたアップルをクビになったことは自分の人生で最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました
 クビになって会社の重責から自由になれたことで、私はまた最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんです。
 そのあと5年の間に、私はネクストという会社と、ピクサーという別の会社を立ち上げました。ピクサーは世界で初のコンピュータアニメの映画、トイストーリーを創り続け、それがのちにディズニーが買い上げるほどの、最も世界で成功したアニメスタジオになりました。またアップルがネクスト社を買収し、私はアップルに戻ったのです。私達がネクストで開発した技術はアップル復活の心臓部となりました。
 極めて確かなのは、このどれもが、私がアップルを首になっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかったということです。私にはそう断言できます 】と。

 これはジョブズが2005年に、スタンフォード大学での学位授与式で卒業生に送った有名なスピーチです。西洋には、Everything happens for the best. (すべては、最善のために<最善に向けて>ある) ということわざがありますが、稲盛氏やジョブズ氏の経歴は、まさにこれを裏付けています。
 さて、孫青年の病床で起きる出来事、これからも目がはなせません。

(連載・第二十回完 以下次回につづく)

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執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)

テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)

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