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その18 創立記念日という名ではなく、恩人感謝の日に

 独占取引に成功した販売契約先、上新電機のパソコン専門店「J&P」は、やがてパソコンソフトの小売業として日本一となりますが、その上新電機と契約したほんの少し後に、今度はパソコンソフトの開発で日本一だったハドソン社との独占取引契約までも勝ち取り、ここで名実ともに、その川上と川下を押えたことになります。
 そうなればビジネスも大きく展開していくことになるわけですが、それに伴って必然的に仕入れ額も億という単位の運転資金が必要となり、もはや大手銀行からの借り入れに頼むしかなくなったわけです。

 そこでアメリカの学生生活6年から帰国してまもない、日本の商習慣にも疎かった孫青年が、大手銀行に出向いて “私には何の担保もなく、だから返済の保証は自分が全責任をとります。ただし、優良企業に対する短期貸付けと同じプライムレートにしてください。そうでないと、おたくの銀行からの融資は断念します”と言ったわけですから、銀行でなくても誰が聞いても、この青年は頭がおかしいのでは? と思うのは当然で、立ち会った御器谷支店長の口から、即座にこの言葉が出たのでした。

 しかし支店長は、この青年の意気込みに何かしらのポテンシャルを汲み取ったわけです。というのも“何か説得材料になるものはないのか、誰か、身元を照会できる相手がいないのか”と言って、ただちに追い返すことをしなかったからです。
 そのとき青年の口から出たシャープの佐々木専務の名がこの窮地を救うことになります。青年が「多国語間音声翻訳機」の売り込み先で出会った、当連載その七回で紹介したシャープの重要人物、その人です。

佐々木専務の個人保証

 当の佐々木氏は奥方に、“個人保証したから、もしかしたら家を取られるかもしれない。まあ、見込みのある子だから大丈夫だろうけど”と、言われていたそうですが、例の支店長に対しては「僕が個人保証しますから、ソフトバンクに融資してやってください」と話されたとのこと。
 この個人保証した佐々木専務の胸の内が、PRESIDENT誌の2010年12月13日号に載った次の記事でわかります。

 「まだ会社の実績もなく、認知度も低いソフトウエアという業種へ、保守的な銀行が、担保なし・保証人なしの融資に色よい返事などできるわけがない。ここで登場するのが佐々木。銀行にこう伝えたという。
“僕が個人保証しますから、ソフトバンクに融資してやってください”
 無謀なことに、自分の給料、退職金、自宅の不動産価格を確認し、万が一のときはそれらの資産をなげうつ覚悟を決めた。もし、本当にそうなれば人生は完全に狂う。死んだも同然と言えるが、幸いソフトバンクの業績が上向き、財産没収は免れた。佐々木は、人生を賭けた賭けに勝ち、九死に一生を得たのである。だが、なぜ赤の他人にそこまでしたのだろうか。
 “僕はね、彼のことが、かわいいんですよ。僕が死んでも彼を生かすほうが人類のためだと思ったの。人類が長い間生き残っていくためには、誰かにバトンタッチしていかないといけない。僕は彼にバトンタッチしたいんです”

 当時、佐々木専務は66歳で青年は24歳。専務の胸の内です。こうして御器谷支店長は、佐々木専務との直接のやり取りのほかに、大阪難波支店には上新電機の浄仏社長との関係を調査し、青年の話したことに嘘がないと確信します。
 そして自分の一存で融資できる金額は1千万円までであったにもかかわらず、その限度額の10倍もの金額を融資するのです。支店長は“自分の首と退職金を担保にその融資をした”と後で語っています。佐々木専務の口添え保証があったにせよ、 そこには銀行支店長の覚悟もまたあったということです。

 さて、度々お伝えしているように、この連載はただ単に孫氏の歩みを羅列して掲載をしているわけではありません。もちろん氏のことをヨイショするためのものでもなく、今日のソフトバンクが出来上がるまでの過程の中で、孫氏の考え方や言動に焦点を当て、皆様方の日常の問題を乗り越える糧として参考になるようなことや、また日々を通してその糧を世の中に大いにお役立てていただけるような内容を取り挙げることに努めています

  ここで考えていただきたいことは、銀行一般の常として当然そうなっていてもおかしくないのに、支店長が孫青年の話を適当に聞き流して追い返さなかった点です。
 この現象は前号で見たハドソン社の工藤専務の場合もまったく同じで、事前には適当に追い返そうと思っていたにもかかわらず、工藤専務はそうしなかった。逆に応援する立場にまで変身しています。なぜか。

 前号ではこの工藤氏の“あの目を見たら、これに賭けなきゃ”という言葉と、佐々木氏の“人の心を見抜こう見抜こうとする目だった。だからこの人はやるぞ、と直感的に思った”という言葉を引用して、「青年の目」を取り挙げましたが、銀行の支店長もこの「青年の目」に気魄のようなものを感じ取ったのではないか。
 2014年4月28日、孫氏が“これだけはほかの人に任せるわけにはいかない”と、自ら佐々木氏の百寿を祝うパーティを開いたとき、佐々木氏は「青年の目の気魄」に触れて、こんなことを言っています。

 「僕にはあれが、孫さんの“気魄”そのものに見えたんです。人の内側から発するエネルギーは目に出る。もう30数年も前のことですが、いまでも鮮明に覚えています。
 そのときまだ少年の面影を残した彼が、音声機能付き電子翻訳機を買ってほしいと売り込みにきたんです。説明の最中、目の輝きが異様に鋭い。<これはただものではない>と感じました。
 そこで私は英語版翻訳機の研究開発費として2000万円出すことを即決しました。英語版が完成したら他国語版も手がけなさい。合計1億6000万円の可能性があるとアドバイスしたのです」と。

 ここで人の内側から発するエネルギー、それが気魄となって目に現れ、その背景にある誠意・情熱・熱意が相手にはっきりと伝わるという、つまりそれが説得力の源泉であるという普遍的な真理を、ここに学ぶことができるのではないかということです。
 この慶事の席上、孫氏は佐々木氏にソフトバンク特製の記念ボックスと、「全が先生との出会いから始まりました。ありがとうございます」という、めずらしく手書きの色紙を贈っています。

創立記念日という名ではなく、恩人感謝の日に

 こうして佐々木専務の保証と支店長の覚悟の計らいにより、青年の資金難は救われたわけですが、もう1つここでお伝えしておかなければならないことがあります。  アメリカ生活を経験した氏への見方として、どうしても氏は合理主義者として受け止められがちなのですが、実際に氏は、約束を守り、誠意を見せ、また長幼の序もきちんとわきまえた実に日本的な人情味の厚い側面も、また持ち合わせているという点です。

 以降もそれらの側面を、折にふれ見ていきますが、ここではまず恩人の日を取り挙げます。孫青年は佐々木正氏をはじめ、銀行支店長の御器谷正之氏、そして上新電機の浄弘博光氏やハドソン社の工藤浩・裕司兄弟など、資金面での援護や事業内容で協力を惜しまなかった方たちへの感謝を忘れないようにと、早くから5月のゴールデンウイーク中のウイークデイ1日を年ごとに指定し、恩人感謝の日として会社の休日に制定しているという事実です。

 今では、このことに加えて、ソフトバンクのお客さまや取引先をはじめ、あまたの支援を受けている先、そして社員の家族や友人への感謝の気持ちを確認する日として、この日を一般企業の「創立記念日」にあたる日としています。
 会社を登記したその日づけを創立記念日としているところがほとんどである中で、社員もハッピー、一般世の中にも支障をきたすことが少ないゴールデンウイーク中を選び、恩人に感謝をする日という名で感謝し続けるというその姿勢に、血のかよう人間味が見て取れるということです。

 2007年、孫氏は恩人たちをソフトバンク本社の社長室に招待し、恩人のためだけに業績報告を行いました。
 “創業当初、まだ売り上げが100万~200万円だったころ、私は、将来、1丁2丁の豆腐屋精神で1兆2兆を扱える会社にしたいとお話ししました。必ずそうなるから、応援してください、と。皆さま、今年売り上げが2兆円を超えました。本当にありがとうございました”と、そこには深々と頭を下げる孫氏の姿がありました。

 この報告会に付き添っていた上席スタッフは“脳がちぎれるぐらい考えろ。これは孫の口癖で、実際どんなミーティングや会見用の資料作成でも、本当に発表時間ぎりぎりまで考え抜き、1点の妥協もない。そうした孫の姿勢を間近で見ると、あの驚異的な事業欲のエネルギーになっているのは、その志の高さだけでなく、無力だった若い自分を引き立ててくださった恩人の皆さまに恥じない働きをするのだ、という強い信念なのだと感じます”との言葉を残しています。

佐々木氏の数奇な運命

 資金もお客さまも何もないそんな折々に手を差し伸べてくれた恩人たち。その恩人の中でも一番の恩人とも言える人が、佐々木氏であることがわかります。
 この佐々木氏は、昨2018年の1月に102歳で大往生されましたが、2度もそれより短命で終わってしまうと思われる寸前に、“もっと長く生きて貢献せよ”と天からの命を受けたかのような運命を担う人です。

 その運命とは飛行機事故です。1度目は1974年、ちょうど孫氏との接触があった専務時代です。佐々木氏がマレーシアに設立された生産会社の竣工式に出席した翌日、空港で次の目的地であるクアラルンプール行きの飛行機を待っていると、そこで前日竣工式で祝辞を述べてくれたマレーシアの農林大臣と出くわします。
 そしてその大臣の乗る便が、途中クアラルンプールに立ち寄るため、佐々木氏の便よりもクアラルンプールに早く着くことから、一緒に行かないかと誘われるのです。
 しかし早く到着しても現地スタッフが迎えに来ていないことから、佐々木氏は断るのです。そしてその後、農林相を乗せた飛行機は墜落、大臣は帰らぬ人となったのです。

 2度目は例の日航機、御巣鷹山事故です。1985年、副社長兼東京支社長の職にあった佐々木氏は、お盆で自宅のある大阪に帰るため、当該日航機を予約していました。
 ところがその前日に、フィリップス社の東京支社長から“オランダ本社の社長が会いたがっているが、明日、会えないだろうか”との連絡が入ったのです。
 事業内容で関係の深かったフィリップ社の社長とは、毎年の年末に、社長が来日して食事を共にするというのが恒例となっていたのが、その年に限ってお盆のその日となって、飛行機の予約を変更したのです。
 佐々木氏はホテルニューオータニでの会食中に墜落事故を知りました。年末から4ヵ月も違うこの日程の変更に、数奇な運命を感じざるを得ません。

米軍の情報網のすごさ

 佐々木氏は副社長から顧問を歴任し、シャープを世界的な電機メーカーにまで育てられた人ですが、氏から聞き取り、米軍の情報網のすごさを実感させる日本経済新聞社・大西康之氏の記事がありますので、この機会にそれをご紹介しておきたいと思います。

 「京都大学時代、教授の計らいでドイツのドレスデン工科大学に留学した。この時点ですでに、佐々木は中国語、英語、ドイツ語と日本語の4カ国語を操った。通信技術においてはすでに日本の先頭を担う立場にあり、当時の逓信省に呼ばれて電話機の開発に携わった。
 大学を卒業したのは盧溝橋事件の翌年に当たる1938年。戦時色が強まるなか、軍の命令でレーダーなどに使う真空管を開発するため川西機械製作所(現在のデンソーテン)に入社する。太平洋戦争が始まると佐々木は陸軍登戸研究所に派遣された。

 そして最新のレーダー技術を教わるため、ドイツに送られた。行きはシベリア鉄道を使ったが、帰りはソ連の参戦が近づいていたため陸路が使えず、ドイツ軍のUボートに乗って設計図を持ち帰った。
 帰国すると佐々木は、マイクロ波を敵兵に照射して焼き殺す怪力電波の開発を命じられた。空襲が激しくなった首都圏を逃れ、登戸研究所のメンバーは諏訪湖のほとりで怪力電波の研究を続けた。ついにプロトタイプが完成し、捕虜を使った人体実験へと進むことになる。

 佐々木は自分たちの技術が殺人に使われることに良心を痛めたが、空襲で半身を吹き飛ばされた部下を思い出し“やらなければ、こちらがやられる”と自分に言い聞かせた。だが実験が始まる直前に玉音放送があり、佐々木たちは実験機を諏訪湖に沈め、神戸に戻った。
 神戸は一面の焼け野原だったが、川西機械の工場だけは奇跡的に焼け残っていた。もう軍事用のレーダーは必要ない。続々と復員してくる社員にどんな仕事をしてもらおうか。思案にくれる佐々木に、連合国軍総司令部(GHQ)から呼び出しがかかった。

 さては怪力光線の開発がばれたか、よくて刑務所行き、最悪なら処刑。思いつめた佐々木が東京・日比谷のGHQ本部を訪れると、米軍の大佐が机の上の電話機を指差して言った。
 “これを設計したのは、きみか” 京大時代に佐々木が設計した黒電話だった。
 “そうです” 
 大佐は怒鳴り始めた。
 “品質が悪すぎて使い物にならない。東京・大阪では雑音が多すぎて会話ができないではないか。アメリカに行って勉強してこい!”
 大佐はこうも言った。
 「きみのところの真空管工場が、なぜ爆撃されなかったかわかるか」

佐々木が首を傾げていると、大佐は言った。
 “日本全土で占領政策を遂行するには電話が必要だからだよ。だから真空管をつくっているきみの工場は空爆の対象から外された。そこの責任者が、きみだろ”
 佐々木は愕然とした。奇跡的に空襲を免れたのではなく、あとで利用するために計算づくで残されたのだった。屈辱だが、それ以上に電話機開発の責任者が自分だったことまで知っていた米軍の情報力に舌を巻いた」と。

 私筆者は、アメリカが日本の代表的な伝統を多く残す京都の爆撃を、意図して避けたということは以前から知っていましたが、ここまでも考慮していたとは、この記事で初めて知ったことでした。

 さて、運転資金の難を乗り越えたあと、やはり次々と壁に遭遇する孫青年ですが、このあとどのように発展していくのか、皆様方の日常の問題を乗り越える糧として、また日々を通してその糧を世の中に大いにお役立てていただくため、稿を進めてまいります。

(連載・第十八回完 以下次回につづく)

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執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)

テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)

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