arp.co.ltd
arp.co.ltd

その34 ヤフーの発掘

 1994年7月の株式公開で、会社の時価総額が2700億円となったものの、コムデックスなどの展示会M&Aに1000億円、さらにジフ・デービスの出版部門M&Aに2100億円も使った孫青年は、こんなことを言っています。
 “まわりから無謀な投資とさんざん非難をあび、冷笑されました。しかし、アジア人が一度も足を踏み入れていない道を切り開くことにしたかったのです。せっかくの一度しかない人生ですから、悔いを残さないように思いっきりやってやろう、そのほうがずっと面白い、と思って決断しました”と。
 まさしくこれまでにもしばしば孫青年の決断を後押ししていた坂本龍馬の生きざまがそこにあります。
 
 前号で見ていただいたように、ジフ・デービスの買収が決まったのは1995年11月で、その資金振込みが完了したのは1996年の2月でしたが、その1995年の暮れ、ビル・ゲイツから青年の元に1つの小包が届きました。
 中身は彼の最初の著書「THE ROAD AHEAD」(注:日本語版はビル・ゲイツ 未来を語る)」でした。 表紙の内側には彼のサインとともに「Masa, You are as much as risktaker as I am. (正義、あなたは私と同じような勝負師だ)」と書かれていました。
 
慣行に風穴を
 
 そのときの資金集めで、従来のしきたりにメスを入れたのが孫青年でした。それまでメイン銀行は、社債管理会社の維持費がかかるという理由で、相当額の受託手数料を企業に課していましたが、ソフトバンクは「社債管理会社」抜きの自社管理することにより、手数料として億単位でかかるはずだった費用をその二十分の一以下で済ませています。
 社債を購入した投資家を保護するために設けられる「社債管理会社」、その任にはメイン銀行があたるのというのは、法律に明文化されていたものでもなく、従来からの「慣行」で行われていたものだったのです。
 
 従来の金融界の「しきたり」なるものからすれば突拍子もないことでしたが、このように上場したばかりの会社が、証券市場から直接調達方法でお金を集めるという方法を取った背景には、極めて動きの速いパソコン業界にあって、日本従来の慣行や規制、そしてそのスピードに従っていたのでは間に合わなくなってきている、ひいては世界に遅れを取ってしまう、ということがあったからです。
 時代の流れに沿った、行動をいち早く取っり、従来の慣行に風穴を開けたということです。
 
 さらに銀行との決別に至った経緯には、過去の体験が多少なりとも青年の脳裏にあったものと思われます。
 遡ること日本ソフトバンク創業時、融資のお願いにいった或る大手銀行先では“無担保でしかも業種さえはっきりしない会社に3,000万円もの融資なんてできない。ソフトの流通なんて電話帳にも載っていない”とあっさり断わられたことがあります。
 その折、青年は過剰ともとれる反応を示し、取引を一切打ちきるとともに、そこの預金口座もすべて解約してしまったのです。
 
 また1992年、或ることで大きな取引のある大手銀行の情報通信部門を担当していた重役氏を訪ねた折、その雑談中、青年はこんな質問をしました。
 “アスキーさんが本社扱いなのに、なぜソフトバンクが日本橋支店なのですか”と。するとその重役氏の答えは“支店扱いのものを本店にするかどうか私の任ではない。大体、僕の担当しているのは情報通信の会社なんですよ。
 失礼ですが、孫さんのやっている会社は、商社とか流通を担当している部門に相談なさったほうが良いと思いますよ”というものでした。
 
 情報分野の会社として認知に至っていないというこの重役氏の発言は、当時「デジタル情報産業革命」を高らかに掲げてその真っ只中にあった孫青年にとって、大きなショックであったものと思われますが、のちに氏はこんなことを語っています。
 
学校の成績次第で保険の掛け金が違うアメリカ
 
 【 日本の金融市場というのは、信じられないくらい遅れた市場だと思うんです。でもそれは、日本の金融界の経営者に能力がなかったからではない。
 日本の金融界の経営者は非常に頭がいいし、一生懸命仕事しています。けれども、基本的には規制でがんじがらめの状態にあり、ものを考えてはいけないというルールが存在したため、市場をとんでもなく遅れたものにしてしまっていたのです。
 自分の商品の値段を自分で決めちゃいけない。そういう商売はほかにありません。たとえば車の新製品にしても値段は自分で決めているわけですよね。
 
 ところが生命保険、あるいは株式の売買手数料などは、全部以前の大蔵省が決めていたんです。金融界はそれに黙って従っていたんですよ。
 じゃあ競争はどうやってするのかとなると、タオルを配ったりカレンダーを配ったりという形になってしまう。今年のカレンダーは誰が載ってますとか、今年のタオルは肌触りがいいとか、そんなことでは本業で勝負していることにならないわけです。
 
 たとえば二十数年前、僕が大学生でアメリカにいたころ、いい成績をとらなきゃいけないと、つくづく思って一生懸命勉強した。なぜかというと、学校の成績の良し悪しで自動車保険の掛け金が驚くほど違ってくるんです。なぜそうなっているかというと、成績が相当いい人間は、事故率も低いと統計でピタッと表れているからです。
 保険会社の場合はコンピューターを回して、成績に対する事故率の相関関係、家から学校までの距離対事故率のパーセンテージ、好みの音楽がロックかクラシックかで事故率がどう違うかということや、趣味、喫煙などさまざまに調べる。
 
 そういうデータに基づいて、掛け金がいくらになると計算している。「真面目な学生向けの自動車保険」などと銘打って次々に、新製品を出すわけです。二十数年経った今聞いても、新鮮に思うくらいの驚きです。
 日本では主に年令と病歴くらいしか、保険料決定の基準がありません。一方、アメリカではさまざまな保険があるわけです。信じられないくらいに恐ろしい差ですよ。
 
 日本人にはベンチャースピリッツがないとか、新規の事業が生まれてこないと言われていますが、日本人の持って生まれた資質が悪いんじゃないんですよ。
 そういう仕組みをつくったお役所が悪い。仕組みが悪いのに日本人のDNAが悪いかのような議論になっているからかわいそうだと僕は思うわけです。
 
 明治維新のとき、あれほどの事業を興したのだし、戦国時代の「一番槍」などは、まさにベンチャースピリッツそのものです。命をはって、一番に槍を突いた人が城を一つもらえる。まさにジャパニーズドリームじゃないですか。
 日本でベンチャー精神が弱い時代は平安時代の公家社会と江戸300年と、戦後の官僚中心の時代。大きく分けてこの3つだけです。
 だから日本人が丸ごと悪いのではなくて、仕組みを変えてあげることによって、もう少し健全で、もう少しクリエイティブで、もう少しベンチャースピリッツあふれた社会に変わり得ると思っているんです 】と。
 
 当時の画一的で規制の多い仕組みでは、移り変わる市場の要求に応えられないばかりか、必然的に世界との競争に置き去りにされてしまう日本になることを、この青年は憂いていたことがよくわかります。
 
 ではコムデックスとジフ・デービスという2つの大きな買い物が、何をもたらしたのかの話に移ります。それは、オーナーとなって初めてのコムデックス開催の前日、1995年11月12日の日曜日、ビル・ゲイツとゴルフをしたときにキャッチしたシグナルに始まります。
 この年の夏に爆発的に売れた新発売のウインドウズ95はインターネット用の「TCP/IP」を標準搭載していなかったため、他社の通信環境OSに取って代わられるという危機感を持っていたゲイツは、“今後はすべての経営資源をインターネットに投入していく”と、その口から出てくる言葉はインターネット一色だったというシグナルです。
 この1995年という年は、世の中一般にインターネットという言葉がまだ知られていない、その黎明期でした。孫青年は語ります。
 
インターネット黎明期の宝のありか情報
 
 【 これから宝島に行きます。その島で宝を掘り当てたいと思っているときに何が一番欲しいか。神様にワンセットだけお願いするときに、欲しいのは、鉄砲なのか、槍なのか、薬や食糧なのか。
 僕なら地図とコンパスだけでいい。宝が隠されているところを記した地図とコンパスさえあれば、3日とかからず毒蛇に噛まれる前に宝を見つけてバッと逃げる。飢え死にする前に掘り当ててさっさと逃げます。
 ですから僕は「どこに宝が隠されているのか」という情報の価値は、万金に値すると思ったわけです。
 
 その地図とコンパスがジフ・デービスだったのです。3,000人のテクノロジー・アナリストを抱え、どこへ向かえばいいのか、何をおさえればいいのかというピンポイント情報を集める能力が、世界一高いのがジフ・デービスです。
 しかも自らキャッシュフローを持っていて、自らの利益でその地図代とコンパス代を払えるなら、こんなにありがたいことはありません。ジフ・デービスのM&Aに全部で2,100億円近く投資しましたが、自らの収益でM&A資金を返していけるのです。無料でその情報のありかを得たことになるわけです。
 
 そこで買収したばかりのジフ・デービス出版部門のエリック・ヒッポー社長に注文しました。 “インターネット時代が本格化すれば、この一社だけは外してはいけないという会社に投資したい。ジフ・デービスの情報力を動員して物色してほしい”と。
 
 まもなく社長からの情報が入ったのはコムデックス最中の15日。“創業から半年しか経っていませんが、とても有望な会社があります。出資期限ぎりぎりだけど2億円出資できる。シリコンバレーの最も信頼できるベンチャー投資会社セコイアキャピタルも、すでに200万ドルをここに投資しており、必ず伸びる会社です”と言ってきたのです。それがヤフーでした 】と。
 
 インターネット一色だったビル・ゲイツの言葉と、ジフ・デービス社長の推薦から、宝のありか情報を得た孫青年は、素早い行動を取ります。翌日の16日、すぐに400km先のシリコンバレーに飛ぶのです。青年は続けて語ります。
 
ヤッホー?ヤフー? なんや、変な社名だね
 
 【 次の日の16日すぐ、ジフ・デービスの社員と一緒に“ヤッホー? ヤフー? なんや、変な社名だね”などと話ながら、シリコンバレーのサンノゼに出かけました。そして学生起業家のジェリー・ヤンとデビット・ファイロの2人に会いました。 
 私たちはコーラとピザを注文し、食事をしながら対話を始めました。
 設立から半年で社員6人ほどの会社で、売上げが1億円でも2億円の赤字。が、話を聞いているうちに、これはという感触を得ました。
 10歳の時に台湾から米国に移民したというジェリー・ヤンと特に気が合って、私はすぐに投資を決めました。
 
 払い込み期限は翌日の17日金曜日。日銀の許可がいるから、こんな短期間に日本から外貨を持って来れません。普通だったら万事休すというところですが、アメリカで用を達すことを思い付きました。コムデックスに2億円を立て替えてもらったのです。
 この2億円の投資で5%のヤフー株を得ました。つまり会社全体の時価総額40億円ということです。
 実は最初、ヤフーに投資する前に、僕はビル・ゲイツにメールを送りました。“僕はヤフーに投資する。あなたと競合するとなるとちょっと考えるけれど、そうでないなら実現したい。あるいは一緒に投資しますか”と。そうしたら“競合しないから、それはいいよ。やって下さい”という返事でした。
 
 実際のところ、ヤフーの大株主になることを望んだのですが、創業者らも株主も主導権を譲り渡したくないとの感触でした。さらにあらかじめ予定された金額以上のM&A交渉となれば、2日間の時間では短かすぎます。だからあとで彼らを説得することにしました。
 今度もその前に、私はマイクロソフトのビル・ゲイツやネットスケープのジム・クラーク、シスコのジョン・チェンバーズやサンマイクロシステムズのスコット・マクニーリら、最高経営責任者者たちに電子メールを送りました。
 “ヤフーの大株主になろうと思う。 もしあなた方のうち一人でも強く反対するのならあきらめる。 意見がほしい”という内容でした。
  私はIT業界の仕組みをよく知っていました。 その後のさまざまなビジネスのために、こうした大物と対立するような状況は避けたかったのです。幸い、全員が私の投資にOKサインを送ってくれました。
 
 そこで翌年の1月、またジェリー・ヤンに会って、“インターネットビジネスは先行獲得が重要です。 ライコス、AOLのようなライバルが続々と出てきていますから、肝心なことは一日も早くより大きな資本でグローバル市場を攻略することです。
 日本をはじめとするアジア市場は私が責任を取ります。またコムデックスとジフ・デービスを通じてあらゆる支援を惜しみません”と、改めて株を3分の1持たせて欲しい旨、伝えたのです。
 
 金額については、2週間ほどあとに株式公開をする予定だから、そのときの入札価格でいこうと言いました。高過ぎる価格で公開したら投資家は買ってくれないし、安過ぎる値段では当然出さない。
 市場に公開する価格だったら僕も株主に説明できるし、売り主もそれ以上に高く売ろうと交渉しなくてもいいと話しました。結果、そのときの時価総額を300億円と見なし、その35%を100億で売ってもらうことで交渉が成立しました。
 
 ヤフーはその時点で、社員が6人ほどのできたばかりの会社で、毎月の売上げが千何百万円という状態でしたから、そんなものに100億円も出したので、さすがのアメリカでも“日本から最後のバブル男が来た。ロックフェラーセンタービルなら建物があったからまだわかるが…”と言われたものです 】と。
 
 当時、赤字の小さな会社だったそのヤフーが、そのわずか1、2年後に、世界のインターネット市場を席巻するなどということは、誰も想像できなかったと思います。
 1998年末に設立されたグーグルが、世に知られてくるのが2000年に入ってからですから、それまではヤフーの独壇場だったわけです。
 宝島とコンパスの入手で、いかにジフ・デービスの買い物が大きかったかよくわかります。
 
 さて、孫青年の幅を広げたM&Aがさらに続きますが、時の移り変わりをしっかりと捉える青年の考え方とともに次回でお伝えいたします。
 
(連載・第三十四回完 以下次回につづく)
 
 


執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)
  • 岐阜県高山市出身
  • 早稲田大学理工学部応用物理学科卒
  • 元:米IBM ビジネス エグゼクティブ
  • 現:(株)ニュービジネスコンサルタント社長
  • 前:日本IBM  GBS 顧問
  • 前:東北芸術工科大学 大学院客員教授
  • 現:(株)アープ 最高顧問
  • 講演・セミナー・研修・各種会合に(スライドとビデオ使用)
    コンピューター分析が明かすリクエストの多い人気演題例
  • 始まったAI激変時代と地頭力
  • 始まったネット激変時代と成功する経営者像
  • どう変わる インターネット社会 あなたやお子さんの職場は大丈夫か
  • ビジネスの「刑事コロンボ」版。270各社成功発展のきっかけ遡及解明
  • 不況や国際競争力にも強い企業になるには。その秘密が満載の中小企業の事例がいっぱい
  • 成功する人・しない人を分けるもの、分けるとき。
  • もったいない、あなたの脳はもっと活躍できる!
  • こうすれば、あなたもその道の第一人者になれる!
  • 求められるリーダーや経営者の資質。
  • 栄枯盛衰はなぜ起こる。名家 会社 国家衰亡のきっかけ。
  • 人生1回きり。あなたが一層輝くために。

テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)

出版

連載

新聞、雑誌インタビュー 多数

※この連載記事の著作権は、執筆者および株式会社あーぷに帰属しています。無断転載コピーはおやめください

バックナンバー
 当「ソフトバンク 孫正義」物語の内容に関しては、連載その1に記載されている資料を参考にしています。また引用の一部画像につきましては、オリジナルの連絡先不明などにより、直接ご連絡の取れなかった旨、当欄をお借りしてお許しをいただきたく、よろしくお願い申し上げます。