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その6 僕の猛勉強には誰もかなわない

 本連載は、ただ単に出来事を羅列しているわけではなく、孫正義氏の生き様には、逆境の中にいる人たちには奮い立つエネルギーを、迷っている人たちには的確なヒントを、また道半ばの人にはその背中を押す形で一層の力を与え、さらなる成長・発展に向けて、ビジネスマンや経営者はもちろん、一般の社会人や学生の皆さんにまで、どんな人たちにも参考になり、大いにお役に立つようなことが多々出てくることから、特にこのことを念頭におきながら、氏の幼少のころから順にご紹介しながら見てきています。
その中で、のちに花咲く源泉とも見られる幼少期の頃の片鱗として、桃太郎のリーダー論と経営論、12歳のクーポン券発想とモデム無料配布、進学塾長訪問とトップキーマンアプローチなどを、これまで見てきました。

 今回も、孫少年の小学生と中学生ころの、新たな話をお届けします。
孫氏は、子供のころに抱いた夢として、学校の先生、画家、詩人、政治家、事業家だったと、のちほど語っていますが、画家とか詩人というのは意外に思えます。
しかし、“今でも時々、会議中のホワイトボードに、トム アンド ジェリーやスヌーピーなどの漫画キャラクターを描いたりする。 他の人たちはなかなかのものだと言う。
というのも小さい頃、画家になりたかったから。しかも貧乏画家になりたかった。尊敬するのは、ゴッホのような画家。画家は、お金のために絵を描くのではない。生活のために描くのでもない。展覧会に出すためでもない。描きたいものを描くのが画家だ。僕は、そういうゴッホのような画家を尊敬している“と、テレビ番組で語っています。

その中で、担任に憧れたことから、最初に持った夢は小学校の先生だったと、次のように語っています。

【 小学校5、6年のころに一時抱いた夢、それは小学校の先生だった。三上喬という素晴らしい先生に出会った影響が大きい。
この僕の夢のことをおやじとおふくろに言ったことがあるんです。そうしたらおやじがウーンって、なんか口ごもるわけですよ。そのあと国籍が日本人でないと、公務員の先生にはなれない、それは無理だと言う。

僕はすぐに、それなら日本国籍に変えてほしいと頼んだ。子供たちに教育してやろうというのに何で国籍が関係あるんだと。
すると国籍を変えてまですることじゃないと言うわけです。そこで僕は国籍という書類上の肩書きが邪魔になるなら、それにこだわることの方がおかしいんじゃないかと。理にかなわん納得いかん、ということを一週間くらい親に、お風呂場やトイレまでついていってくってかかっていたんです。

 すると最後におやじは、おれの親が韓国籍でいたいと言っているのに、その親に国籍を変えろとは言えない、と言うたんです。そして、“小学校の教師も立派な職業だが、お前はそれよりも大きくなれる。別の方向で素質を生かしてみろ”と、私に言い聞かせたのです。
その日から数日間、私は父と話さなかった。悩んだ末、その夢はあきらめることにしました 】と。

この三上という先生は、当時、生徒と交換日記をやっていて、今でも孫少年との日記を7冊も大切に保管しているとのことで、多くの生徒たちから親われ、信頼されていたことがわかります。
その後、中学1年生になった孫少年から、その1年の担任・小野山美智子先生が、少年の思いのたけをぶつけた長い手紙をもらうのです。そこにはこんなことが書いてあったと、小野山先生は話しています。
「“教師を目指し、教育のコースの大学に入りたいと思ったことがあった。だけど、いろいろ調べてもらった結果、国籍うんぬんでどうしてもひっかかる。だからあきらめがたいけど、あきらめざるをえない”というような内容の手紙が何枚くらいありましたかね。めんめんと書き綴ってありましたね」と。

これで少年なりに詳しく調べていたことがわかります。しかしそのあきらめていた夢が、その中学を卒業し、九州ではラサール高校に次いで2番目に難しいとされる競争率11倍だった久留米大附設高校の入試に合格した直後、姿を変えた形で出てくるのです。

孫少年が生まれた佐賀鳥栖では豚を飼うしか収入のない極貧生活でしたが、密酒造作りなどによって少し暮らしが上向き、部落を出て北九州市へと引っ越します。
そこで飲食店経営や消費者金融、そしてパチンコ店経営などを始めてから、家計に潤いが出てきました。
そして少年の小学校卒業に合わせ、名門高校に進学させるという父親の意向で、福岡に引っ越し、少年が中学卒業するころには、消費者金融とパチンコ・チェーン経営がさらに伸び、少年の家庭教師もつけ、森田塾にも行けるくらいに裕福な家庭にまでなっていました。

この森田塾という塾は、クラスで1番の秀才君に教わり、当初、彼から薦められたもので、さっそく通知表を持って入塾を頼みに行くものの、この成績では入れられないと、断られてしまいます。
しかし、そこで引き下がる少年ではありませんでした。そのあと、森田館長と知り合いだった秀才君の母親、そして自分の母親と少年の3人で再度頼みに行き、遂に入塾の許可を得た経緯は、前号でお伝えしたとおりですが、最終的に許可を得たのは、少年の言葉に館長も“参った”からです。

その場に付き添った秀才君の母親は、その少年の言葉を今でも覚えていて、少年は次のようなことを言ったそうです。
自分はこれまで友人との時間を何よりも優先させてきた。一緒に遊ぶ時間を大切にしたからこそ今は成績がよくない。しかしあなたは、これから勉強に全力投球しようという人間を、過去の成績で判断し、その機会をうばうのか。納得できない。」と。

どうですか。理路整然とした内容による少年の説得力。これではなかなか反論することもできなく、結果、館長も自然と少年のペースに巻き込まれていったことがよくわかります。
以降、孫氏のビジネス展開の中で、このような場面がしばしば出てきますので順次お伝えしていきますが、この塾通いで、少年は塾をビジネスと結びつけて考えていたことが以下でわかります。

高校入試直前における孫少年の模擬試験での偏差値は70と、トップクラスにまでなっていて、見事、難関の高校に合格するわけですが、この一仕事を終えた直後に、少年が“相談がある”との電話をかけ、福岡のレストランに来てもらった中学3年のときの担任に、いきなり次のように持ちかけます。

 【 先生、僕は学習塾の経営をしたい。うちの父親はパチンコと消費者金融ばしとっちゃけど、僕が同じような商売をしとったら、お金の取り立てで父と同じようにヤクザば使わにゃいかん。けど、今はそげな時代じゃなかと。
僕は受験塾の森田塾に通った。森田塾は鹿児島ラ・サールや久留米大学附設高校を狙う塾。ばってん、地元には名門進学高校の修猷館や城南がある。僕はこれを狙う塾を作ろう思うとる。
けど、僕はまだ高校生やけん、経営の表に出ることはできん。そんで塾の責任者になってくれんね。
本当は学校の教師になりたかと、韓国籍やけん教師にはなれんと。けど塾なら開けるけん 】
と。

その担任の先生は、のちにこんなことを打ち明けています。
「レストランに教師を呼びつける15歳というのは、それだけでも珍しいのに、その上、自分がオーナーをやるから、元担任教師に社長になってくれないか、というのもまたびっくりです。
そこで見せられた用紙には細かいカリキュラムが書かれていて、また事業計画もちゃんとしたものだったと記憶しています。でも、私がその依頼に乗らなかったためか諦めたようですが、なぜ塾という発想だったのか。
それは、彼の中学での最終的な成績が学年トップになったことで、<森田塾>という福岡でも有名な進学塾に入塾したことが大きいとするものでした。
そこは誰でも入れる塾じゃなく、成績が良くないと入れない。そこで自分も塾を経営しよう、ということにあったのです」と。

さて、実はここに片鱗が出てきているということです。それは人の力を借りて何か大きなことをするというもので、のちに花開く片鱗がここにあったわけですが、その開花の1つが、アメリカ留学中の大学で会社設立のための資金作りのときに出てきたのでした。
まずは、そこに至るまでの大学での経緯を知ってもらわねばなりません。氏は語ります。

【 当時は凄まじく勉強をしていました。何しろ父が吐血し入院と重なるときに、泣く母親を振り切って、渡米留学したわけですから、猛勉強しました。そういう状況の中で勉強をさぼってどうすんや!と。ちぎれるほど勉強しなくては罰が当たると思ってやったんですね。
風邪で頭がガンガンしている状態でも一度も授業を休まずに、いつも教室の前列のど真ん中に座って、食い入るように先生を見て勉強した。トイレに行くときも絶対に教科書から手を離さない、読みながらトイレに入る。道歩く時も教科書を読む、運転する時もイヤホンで授業の内容をテープでもう一度復習しながら。

 食事をする時も手から教科書を離さなかった。 左手に本を持って読み続け、視野のはしっこにボーッっと見える皿に右手でフォークを突き刺してとりあえず刺さったものを食べる。両手にフォークとナイフを持って料理を見ながら食事をするなどというぜいたくなことは考えられなかった。
もう寝る時間だけ、寝る時間も最小限の時間、朦朧としながら、寝てる時間以外はすべて勉強する 】と。

ちょっと信じがたい猛勉強の内容ですが、これは孫氏が2010年3月29日、翌年の大学新卒採用のための学生向けの講演会で語った内容です。
そしてその場で、“この会場にいる5000人の中で、僕よりも勉強している人はいないと思う。自信持って言える”と言っていますから、これは誇張したものではなく、事実である事は疑う余地はないでしょう。
氏の話は続きます。

【 このような猛勉強の結果、2年制のカレッジで全科目でAを取り、そのおかげで4年制のバークレー校の経済学科2年に編入できた。この学科を選んだのは卒業後に事業を始めると決めたからです。そして19歳3年のとき、学生のうちに会社の設立を考えた。
その理由は2つ。 1つは、将来自分が本格的に事業を起こすときの練習をしたかったこと。大学を卒業してからのスタートでは遅い。それに学生の時の会社経営ならば、たとえ失敗しても「これも勉強」で済むものの、社会人になってからは何か悲壮感が漂うからです。
もう1つは、クリエイティブな欲求からでした。とにかく当時、世に出始めたマイクロ・コンピューターにえらく感動していましたので、何かコンピューターを使った新製品を開発してみたいということでした 】
と。

 猛勉強は、バークレー校に入ってからもさらに続き、アルバイトも一切せず、友人とも遊ばないようにするため寮にも入らず、またのちの伴侶となる奥さんとのデートも図書館で二人机を並べて本を読むといったような学生生活だった、と言っています。
姿・形など無頓着だった当時の孫青年に、デパートで声をかけてきた老夫婦から“ベトナムはたいへんだったでしょう”とまで言われたくらい、よれよれのシャツとズボン、そして無精ヒゲにスリッパ姿の青年を見て、てっきりベトナム帰還兵と見間違えたようです。
さて、その学生のうちの会社設立で、青年はどうしたか。氏は語ります。

【 会社設立といっても先立つものがない。まず資金作りにとりかかりました。しかし猛勉強中ですから、そのために割く時間はない。1日5分、1年間頑張って1千万稼げるようなアルバイトはないか…、友人に訊いたら、おまえアホか、いっそのこと学校前のカフェでアルバイトをしろ、とあちこちで笑われました。でも僕は真剣でした。揺れなかった。

そこでひらめいたのが発明でした。実用新案などその特許権を売り基礎資金にすることです。あの松下幸之助さんですら、小さな発明から会社を興した。わしもということで、
とにかく何がなんでも1日5分割き、1つの発明をおのれに課したのです。
「アイデア・バンク」と名付けたノートに、発案したアイデアを書き込む。
1日1発明というのは、天才エジソンでも不可能だったことで、あえてその不可能に挑戦したのです。

そしてとうとう1年間で250、発明しました。その中には万年筆とボールペンのそれぞれ特性を組合せ、ノックしなくても、芯の色を変えることができる三色ボールペンや、またボタンを押して行く先を指定すると、ちょうど今でいう車のナビゲーターのように、運転席の前に設置した地図画面の上に、現在地の赤いランプが点くといったものなど、しかし中にはしょうもない発明もいっぱいありました。
そこで、それらの選択にはコンピューターを使いました。

 商品化したいものの項目と、それらの実現に必要な条件をマトリックス化する。さらにそれら条件を困難度という形で指数化し、項目ごとに合計をとる。そして或る困難度の指数のところにバーを設け、そこを境に、それ以上なら実現のためには考えても無駄、以下なら可能性があると判断できるという手法です。

こうして絞って出てきたのが「多国語間音声翻訳機」でした。海外旅行などで会話の必要にせまられたとき、いちいち辞書を引くのは大変です。
ちょうど以前の電子手帳の原型みたいに、日本語で“空港まで行く近道はありませんか”とキーボードで入力する、あるいは今のスマホのように日本語を音声入力すると、英語に訳され声となって出てくる音声翻訳機というアイデアでした 】と。

すごいですね。今から40年以上も前の話です。このアイデアは猛勉強の疲れが出た結果がもたらしたもので、孫青年が
「あるとき睡眠不足で、次の教室の外で待っているとき、気が付いたら廊下で寝ていたことがありました。
そうだ、声の出る腕時計は、どうだろう。”おい、起きないとたいへんだぞ!” とか “約束の電話をする時間だぞ!” とか、何でも発明に結び付けて考えました。
そのうち、この声が出るということで、もっと商品になりそうなアイデアが浮かんできたのです。」
と言っています。また、この項目を選択するマトリックス手法は、孫青年が帰国後、どんな事業を始めたらいいか、その事業候補立案と選択のときにいかんなく発揮されますので、のちほどじっくりと見てもらいます。

さて、このアイデアを実行に移すにあたって、少年のころのあの片鱗が再現されるのです。そしてその試作品の売り込みは「営業の常」。どこもそんなに簡単には売り込めるものではありません。次々と門前払いを食います。本命と思ってアプローチしたところまで、断られてしまうのです。
しかし、結果は1億7000万円の契約に成功。この売り込み術もまた見事で、それも大いに皆さんの参考になる
ものです。
この片鱗の再現とともにその試作品の売り込み術を、次回にまとめて見てもらいます。

(連載・第六回完 以下次回につづく)


執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)
  • 岐阜県高山市出身
  • 早稲田大学理工学部応用物理学科卒
  • 元:米IBM ビジネス エグゼクティブ
  • 現:(株)ニュービジネスコンサルタント社長
  • 前:日本IBM  GBS 顧問
  • 前:東北芸術工科大学 大学院客員教授
  • 現:(株)アープ 最高顧問
  • 講演・セミナー・研修・各種会合に(スライドとビデオ使用)
    コンピューター分析が明かすリクエストの多い人気演題例
  • 始まったAI激変時代と地頭力
  • 始まったネット激変時代と成功する経営者像
  • どう変わる インターネット社会 あなたやお子さんの職場は大丈夫か
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  • 不況や国際競争力にも強い企業になるには。その秘密が満載の中小企業の事例がいっぱい
  • 成功する人・しない人を分けるもの、分けるとき。
  • もったいない、あなたの脳はもっと活躍できる!
  • こうすれば、あなたもその道の第一人者になれる!
  • 求められるリーダーや経営者の資質。
  • 栄枯盛衰はなぜ起こる。名家 会社 国家衰亡のきっかけ。
  • 人生1回きり。あなたが一層輝くために。

テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)

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