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その19 あと5年の命

 仕入れ用運転資金が億という単位で大きく不足する中、大手銀行に個人保証をしてくれたシャープの佐々木専務のお陰で、窮地から脱却することができましたが、裏をかえせばそれだけ需要があり、ビジネスが活況に向かっていたということです。
 パソコンソフトの小売業として日本一となる上新電機と、同じくパソコンソフトの開発で日本一のハドソン社との独占取引契約の効果は大きく、こちらから積極的に市場開拓に出かけて営業をしなくても、逆に、有力な百貨店や家電販売店も含め、先方より“独占契約を結びたい”という要望が殺到し、結果、取引が激増し、日本ソフトバンクと独占販売契約を結ぶ販売加盟店は、わずか1年余りで全国2,800店、2年後には、なんと4,600店にもなったのです。

 そこで東京・秋葉原でビルの中身がまだ決まっていない段階で“パソコンで全館埋めてみては”と、孫青年が提案し、そこで出来あがったのがラオックスのThe・コンピュータ館でした。東のラオックスと西の上新電機である「J&P」とともに、
孫青年は日本におけるパソコン黎明期に、その旋風を巻き起こしたことになります

 そして大阪でのエレクトロニクス見本市出展で協力してくれた13社が中心となって、1982年の年明け早々、会長を孫青年とした「日本パソコンソフトウエア協会」が設立されます。
 この協会の専務理事が、自分と同窓生であった朝日新聞の記者に、弱冠24歳・新進気鋭の孫青年を紹介するのです。青年と二回りも年の違うこの老練記者が、本連載の第16回の巻末で紹介した「パソコンで巨富を築く日米シンデレラボーイの鼻息」の執筆者です。
 この記事が、孫青年にとって初のマスコミデビューとなったのですが、内容もさることながらその朝日新聞のブランド力は、マーケットにも大きく働きました。さらに販売加盟店が急増していくのでした。

 その記事に、「倉庫も兼ねていた日本ソフトバンクのオフィスでは、商品の箱が床から天井に達するまで、足の踏み場もないほど所狭しと積み上げられ、ソフト商品の出し入れが頻繁におこなわれていた」とあるように、当時の大量販売の様子がよくわかります。
 このような大量販売には、一般に値引きがつきものですが、青年はかたくなに定価販売を押し通すのです。
 当時の孫青年には、すでにいろんな面で経営に対する哲学のようなものが出始めており、実際やり遂げていた手形取引に対する哲学などもその一つで、この考え方も今日のソフトバンクが大となる基礎となっていると思われることから、ここでご紹介いたします。
 青年は次のように語っています。

手形は出さない、の信念


創業の際に決めたことがあります。それは、手形は受け取るが自分では絶対出さないという、現金払いを基本にしたことです。
 その理由の一つは、当時の仕入先メーカーは零細な会社が多く、彼らの事業の死活を左右する何よりも重要なもの、それは手元にある現金にほかならなかったからです。
 多くのソフトメーカーにとって、我々は銀行に見えていたはずです。当時我々のソフト流通は、すでに出来あがっている商品を、専門商社のように右から左に流せばいいというものではなかったのです。まだ完成していないソフトに対して、前もってお金を払い、その分こちらからスペックの要求を出すということも多かったのです。

 もう一つの理由は、
便利な仕組みの手形ゆえに、資金管理がルーズになりやすく、麻薬と同じようになると思ったからです。もちろん現金払いを続けるのは大変なことでしたが、一度も支払いを遅らせたことはありません

 商品が売れることは素直にうれしいことでしたが、売掛金もそれだけ増える。だから、その資金手当ては本当に大変でした。
 第一勧銀からの1億円融資も数ヶ月で底をつきはじめたころ、回転資金捻出のために周辺の銀行を回るのですが、電話帳にも載ってない業種などにお金を貸すことはできないなどと、何度となくにべもない返事をされました。
 運よく借りられても、3ヶ月ごとに切り替えがある。もし、支店長さんが替わったり、本部の審査担当が代わったりして急に借り換えができなくなったらどうしよう、と常にこの不安がありました。

 このような緊張感の中で、さまざまなことを学びました。在庫については常に過剰在庫にならないように気をつけ、売掛金についてもきちっと回収率を上げていく。経費は極力抑える。赤字になれば、とうてい金などを貸してくれる金融機関などないと思っていましたから。
  だから創業以来、我社は全体で赤字を一度も出さないまま大きくなってきました。会社が赤字でも、とりあえず大きくしていくなどという、今日のインターネット・カンパニーに見られるダイナミックさは、僕らの時代には考えられませんでした。
 このプロセスを経たことは非常に役立ちました。この時期に、もし資金繰りの心配がなく余裕を持っていたら、その後の成功はなかったものと思います 】
と。

 こうして資金調達面での苦労も次第に落ちついてきたところで、一段と力を入れ出したのが営業力のアップ、つまり広告を打つという世界です。
 当時、マイクロソフトなどとソフトの開発・販売事業を組んでいたアスキー社は、パソコン関連の雑誌出版業界における最大手として怖いものなし、という存在でした。
 そこに孫青年が広告掲載を申し込むのですが、あっさりと断わられてしまいます。その背景を考えれば、当時のパソコン販売店やソフト開発会社を短時間でアッという間に押さえてしまった日本ソフトバンクに対し、アスキー社自身が脅威を感じはじめていたということになります。
 このような経緯から青年は、自分で出版事業を立ち上げることを決意します。その実施段階での失敗や、またそれを見事に立て直す過程が、またいろんな面でも参考にしていただけると思われますので、ここに取り上げてみます。
 青年は語ります。

出版事業への参入

【 私はこれを機会に、自らパソコン関連雑誌の出版事業に参入することを決意しました。パソコンのソフトやハードの先端技術、新製品の開発動向や利用技術などなど、専門的な情報を発信・提供する本格的な雑誌を自ら制作して販売すれば、パソコンの本格的な普及に役立ち、さらに取引先のビジネス環境づくりにも役立つと考えたからです。さらにメディアそのものもビッグ・ビジネスに成長するかもしれない。
 ところがこの出版事業への進出というアイデアを社内に示すと、役員はじめ社員が一斉に猛反対です。しかも“パソコンメーカー別に二種類の雑誌を同時に創刊する”と言ったものですから、社内はパニック状態になりました。

 機種別雑誌は、現在では当たり前となっていますが、競合するメーカーの内容を載せた雑誌を同じ人間が作って出すなど、当時としてはまったく考えられなかったのです。
 でも、 世界中のコンピューター情報が入ってくるそのこと自身が、日本ソフトバンクの特長だということで、私はこの方針を押し通しました

 NECさんのPC用に<Oh! PC>、シャープさん用には<Oh! MZ>というタイトルで月刊二種類の雑誌創刊です。1982年5月のことでした。


 しかし、出版の素人が二誌創刊なんて業界ではありえないことなので、案の定、創刊号の売れ行きは最悪でした。5万部印刷に対し、なんと85%の返本です。広告の掲載もほとんどやっていませんでしたから、毎月一誌で一千万円の赤字をたれ流す始末です。
 一時は出版事業からの撤退という考えも、頭の片隅でちらつき始めたのですが、ここで廃刊にでもしてしまったら、それこそ「経営危機の日本ソフトバンク」などという、あらぬ噂となって追い打ちをかけられ、それが現実となって決定的なダメージを受けてしまうリスクのほうが大きいと考えたからです。

 そこで出版から半年たったところ、徹底的に現状を調べ、抜本的な対策を講じることにしました 。それまでまったく広告・宣伝などをしていなかったことから、世の中では雑誌の存在すら知られていませんでした。
 そこで、値段の割には掲載されている情報量が少ない、などといった読者の声が書き込まれている数万枚の読者カードを全部読んで分析し、読者の求めていることを全部やろうと決めた のです。

 ページ数を2~3倍にして定価は680円を580円に下げ、特集などの記事を増やすのはもちろんのこと、有り金をはたいたテレビ宣伝による知名度向上の戦略をとったのです。ここまでして万策尽きてだめなら、一気に廃刊するつもりでした。
 結果は大成功です。印刷部数も思い切って倍の10万部に増やしたのに、3日で売り切れ、その日から出版事業は黒字となり、既存のソフト流通事業とも相乗効果が上がって、日本ソフトバンクのビジネスは拡大していったのです 】と。

 社内で総スカンを食らった機種別雑誌の創刊という孫青年のアイデア。実はそこに、桶狭間の戦略があったのです。
 すでにコンピューター雑誌業界で日本一の座に君臨していたアスキー社を相手に、極端に兵力の落ちる、というよりは、ほとんど兵力を持たない日本ソフトバンクが挑むことは、戦力から見て当然負ける戦さです。
 そこで青年は相手を徹底的に調べたわけです。社内においてどれだけ問題を議論しても、解答の核心にはなかなか迫れないものです。数万枚の読者カードを全部読んでの分析は、まさに“あらゆる問題の解答は、すべてユーザー側にあり”を地で行くよい例です。

 そして、先方の雑誌の位置付けがパソコン総合誌であること、つまり老いも若きも、さらに機種もメーカーも、すべて一冊の中で扱っていることを突き止めたのでした。
 青年の取った戦略は、”限られた範囲で、確実にこちらが一番になれることに狙いを定める。まず局地戦で勝ちを収め、しかるのちに全体で勝利を収めていく”という戦法で、今日では当たり前となっている「機種別雑誌」の創刊というアイデアだったのです。

 その道日本一を誇る上新電機やハドソン社と独占契約を結び、さらに業界誌日本一のアスキー社を向こうにまわして堂々と渡り合った雑誌出版事業も軌道に乗せた孫青年は、まさに19歳の折に真剣に考えて作った人生50ヵ年計画、「20代で自分の業界に名乗りを上げて、30代で軍資金を貯める。40代で一勝負して、何か大きな事業に打って出る。50代でそれをある程度完成させて、60代で次の経営陣にバトンタッチし、300年以上続く企業に仕上げる」の通り、名乗りを上げた業界で、上々のスタートを切ったことになります。
 ところがそんな折、青年の身に大異変が起きるのです。それはまさに青年の生涯を左右する最大のターニング・ポイントでした。
 青年は語ります。

あと5年の命

【最初の兆候が出だしたのは、雑誌創刊で忙しく立ちまわっているころでした。その兆候とは、体がだるいことでした。痛いとか苦しいというのではなく、倦怠感のだるさがあって、いわゆる体調がよくないというやつです。
 最初のうちは、これも疲れからくるもので、やがて治るだろうと思っていました。ところが、お客さんが一緒のときでも体がだるくてしかたがありません。”少し失礼します”と言ってオフィスのソファーや車の座席に寝そべる回数が多くなってきたのです。
 そのうち定期健康診断期がきて、そこでこれはちょっと肝炎の疑いがあるぞ、ということになったのです。すぐ慶応義塾大学病院に出向き、本格的な精密検査を受けると、思いもよらない宣告を受けてしまったのです。

 ”このままだと、肝硬変になる可能性が極めて高い。早ければ1、2年。遅くとも5年で肝硬変になる。5年はなんとかもたせられるかもしれないが……”と、担当医から重度の慢性肝炎であることを告げられたのです。目の前が真っ暗になりました。それは長くても5年過ぎれば、命が危ないということです。
 すぐに 入院。会社は始動したばかりで、ようやく幸先のよいスタートが切れたというときです。まだ子供も幼く、どうしてこんな大事な時に死ななければならないのか。夜、病院の個室で一人祈り、そして泣きました。辛かったですね

 まず、「社長は今、米国に残してきた会社の残務処理に忙殺されている」ということにして、私の入院は一部の側近以外、会社内でも極秘にしました。そうしないと、銀行はすぐにも融資をストップしかねません。また経営代表者の倒れた日本ソフトバンクは危ないなどといった噂が、まことしやかに流されてしまいます。
 だから、毎日電話指示を病床より出したり、重要な記者会見にはそっとベッドを抜け出して出席したり、また会社の重要な会議には無理して顔を出していました。そしてその度に注射を打つ。そんな中、どうしたら自分が病床に居ても会社を動かしていけるか、真剣に考え悩む日がつづきました】と。

 思いもよらない宣告で、祈り涙する孫青年でした。この入院で青年の生き方、考え方が一変するのです。次回、それを詳しく見ていきます。

(連載・第十九回完 以下次回につづく)


執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)
  • 岐阜県高山市出身
  • 早稲田大学理工学部応用物理学科卒
  • 元:米IBM ビジネス エグゼクティブ
  • 現:(株)ニュービジネスコンサルタント社長
  • 前:日本IBM  GBS 顧問
  • 前:東北芸術工科大学 大学院客員教授
  • 現:(株)アープ 最高顧問
  • 講演・セミナー・研修・各種会合に(スライドとビデオ使用)
    コンピューター分析が明かすリクエストの多い人気演題例
  • 始まったAI激変時代と地頭力
  • 始まったネット激変時代と成功する経営者像
  • どう変わる インターネット社会 あなたやお子さんの職場は大丈夫か
  • ビジネスの「刑事コロンボ」版。270各社成功発展のきっかけ遡及解明
  • 不況や国際競争力にも強い企業になるには。その秘密が満載の中小企業の事例がいっぱい
  • 成功する人・しない人を分けるもの、分けるとき。
  • もったいない、あなたの脳はもっと活躍できる!
  • こうすれば、あなたもその道の第一人者になれる!
  • 求められるリーダーや経営者の資質。
  • 栄枯盛衰はなぜ起こる。名家 会社 国家衰亡のきっかけ。
  • 人生1回きり。あなたが一層輝くために。

テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)

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